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2004年6月

2004.06.27

詰め替え用洗剤の意義

最近は七輪で魚を焼いて食っているので、その時はダイソーで買った
魚を挟んでホールドして、そのままひっくり返して焼ける焼き網を
愛用している。

安物とはいえ、便利な道具なのでメンテナンスを欠かさない。おかげで
長持ちする。使用後は焦げや脂をきっちり洗い流しサラダオイルを薄く
塗り錆び止めするのだ。

その洗浄時に便利な洗剤がマジック○ン、・・・別に商品名を出していいか
花王のマジックリンだ。換気扇やレンジ用のアルカリ性のハードな洗剤だ、
食器用の中性洗剤と違って本来素手で扱うモノじゃないが魚を焼いた後の
ベタついた脂を落とすにはコレが劇的にキクのでやめらない。

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焼き網以外に本来の用途でも良く使って台所を綺麗にしているので使い
切った。そこで他の買い物のついでに近所のドラッグストアでそれを買う
ことにした。

商品棚には自分が使っているハンディースプレータイプと、その詰め替え
用ボトル、そして普通の台所用洗剤のようなキャップ付きボトルの3種類が
売られていた。ハンディスプレータイプが約300円チョイ、その詰め替え用が
200円チョイ、そしてボトルタイプが詰め替え用と同じ値段で200円チョイ
…だった。

使っていたのがスプレータイプだから、当然その詰め替え用を買おうと
思った。だが最近食品やこういう物を買う時も内容量を見てグラム単価を
暗算する癖がついているのでふとそれをやってみたら、詰め替え用は
400ml、で、同じ値段のボトルタイプも参考までに見てみたら500ml!

つまりボトルタイプを買って詰め替えれば同じ値段で1.25倍買える!

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それに気がついたので躊躇わずボトルタイプを買って、家に帰ってから
ハンディスプレータイプの本体に移し変えた。スプレータイプについている
ボトルには400mlしか入らない、だからボトルには100ml残った。

つまり、余った100ml分は移し変える手間賃、ってことなのか?

そういや似たようなことが過去にもあったな。普通の中性洗剤を買おうと
したら詰め替え用のビニール袋入りとボトル入りがあったが容量は同じ
なのに新品ボトル入りの方が安かったので躊躇わずそっちを買ったっけ。

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「詰め替え用」という商品を出すことで容器を再利用してゴミを減らそう、
という姿勢は実に共感出来る。なにせ数年前まではプラスチックリサイ
クルは自分の本職だったのだ。だがこんな価格設定では詰め替え用を
作って売る意味すらないような気がする。

値段が高くても環境意識が旺盛だから詰め替え用の方を買う、という人は
世の中そういないよ、マジで。安ければボトル入りの方を買うさ、便利だし。

つまり、ゴミを減らそうとしたり、リサイクルを推進しようとする商品ならば、
それを通常商品よりもお買い得感を得られる値段で売らないとダメだ。
なのにそれをせずに売っているのは一体どういうわけだ?

これでは詰め替え用を積極的に買ってくれる環境意識旺盛な人が
実は損していることに気がついたら、だまされたような気になって
せっかくの環境意識にケチをつけるような事になりはしないだろうか?

もしかして通常商品にお買い得感を持たせて、そちらを買わせるための
「戦略商品」と言う意味があるのでは?と思ってしまうのは俺だけ(^^;)?

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ちょっと話がずれるけどゴミからの再生品、つまりリサイクル品は残念
ながら同じ用途のバージン製品と比較すると品質が低くて値段が高い
物が多い。リサイクルは不安定な材料をつかって、余計に手間をかけて
作るのだから当然だ。

これじゃだれも買わないよ

品質がバージン品と同等以上で、値段がそれよりも安くならない限り、
リサイクル品は普及しない、環境意識がなってないと言われればそれ
までだけどコレが真実。

逆に言えば、それさえクリア出来ればリサイクルは驚く程スムーズに
「どんどん回り始める」はず。それが簡単じゃないのは、その業界の
人間だったから嫌と言うほど判るけどね

リサイクルは家庭のごみ箱で分別したり、きれいに洗って、それから
捨ててくれれば難しくない。だがその些細な手間を惜しむ人が多いから、
リサイクル製品を作る前に巨費を投じて分別装置や洗浄装置を設置
しないといけない。

分別や洗浄は100%出来っこないから異物が混入する事で品質は低下、
巨費と手間をかけた結果、その費用は製品に上乗せしないと商売には
ならない。・・・完璧な悪循環だな(-◇-;)

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たかが台所用洗剤程度でそこまで複雑に考えずに、単に1.25倍入りの
洗剤を同じ値段で買えた、ラッキー!と喜べば良いのかも知れないけど、
残念ながらあまり単純な人間じゃないから、色々と深読みし過ぎている
のかもなぁ。

技術開発という職業でメシを食って生きていると、何でも多面的に物事を
見て、その結果を元にナニが何でも真相をつかみたい、と思ってしまう。
つまり裏の裏までを考えてしまうのだが、これ、人間としては悪癖だね(^^;)

でも、どこかの誰かは必ず考えていなければいけない事だと思うのだ。


 

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2004.06.23

命という「襷」

「人間の三大本能は、睡眠欲、食欲、物欲である」

                            by アリストテレス

・・・当然うそだ<ばき

実はこれは今の自分の持論だ。だが、あながち間違っていないとも思う。
人間は葦は葦でも考える葦だ。そう、我思う故に我在る、なのだ。
つまり知性があるから人間なのであって、知性無き他の生物と人間との
生き様に一番大きな違いがここにある。

でも人間以外の生物、例えばのそのそと歩く大きな亀を見ていると、
いつも無言でいるこいつには哲学があるなぁ、と思ったりもするが(^^;)

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世間一般で言う三大本能は「睡眠欲」、「食欲」、「性欲」、だと言う。
「生物」の三大本能は確かにそうだろう。そうやって個体は生き長らえ
子孫を残して、繁栄してゆくのだ。

だが生物だけど「人間」として生まれて育ち、そして老いて思うのは
三大本能と言われる割に性欲ってのは若い一時期だけ特に旺盛で(^^;)
その時期が過ぎ、老化が進行すると段々どうでも良くなってしまう、
そういうもんだと思うのだ、実に残念ながらね。

ぶっちゃけ、自分の人生を省みると、女運が極めて悪い星の下に生まれた
ためもあるだろうが世間一般の男の平均と比べたらろくに遊ばなかったから
性欲を人並外れて満たせないまま年老いてしまったような気がする(自爆)
今から思えば非常に残念ではあるが、もう過ぎた事だ、仕方ないわな。

それでも、一度はこいつのために自分の未来をすべて捧げてもいい、と
思えるほど惚れた女に出会えて、その決心を持って結婚し、短い間では
あったけど自分の家族の未来を夢見れて、幸せだなと思える時間を
過ごせたのだから、そういう思いをした事が無い男よりは「雄」としては
遥かに劣るけど、「男」としては幸せな人生だったと思う。

そんな風に思うのが俺だけでなかったら、今も幸せだった…かもね。

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人は本来はそんな時期に衝動的な本能をもって子を成し、そして育てる。
そこには頭でっかちな理屈も、ゼニカネの損得を弾く打算も無いはずだ。

育て終わった親は子に「襷」を託し、そこで生物としては役目を終える。
その後も生き続けるが、すでにDNA存続という本能(呪縛)から開放される。

「襷」を託された子は親が行ったように、成長し、競争し、結果生きて、
同じように本能に従い子を成し、育て、「襷」をさらに次に繋いで行く。
つまり今生きているすべての命は、何十億年も前から一度も絶える事無く
「襷」が繋がれた結果、ここにあるのだ。

そういう生物としての為さねばならない仕事、「命を襷渡しする」事は
心底望んではいたが残念ながら自分には許されなかった。

過去から脈々と受け継がれた我が「襷」は繋がれる事無く自分で終わる。
これは別に悪い事じゃない。今を生きている環境で生き残れない遺伝子は
言ってしまえば今の時代が望まない欠陥品であるかもしれないからだ。

時間と言うフルイがそれを排除し、結果優秀な遺伝子だけが未来に残る、
そういう自然淘汰は、最初の命が誕生してから今に至るまで、
無限とも思われる回数を繰り返し行われて、その結果生き残った選ばれた
「襷」だけが今を生きている。そう、自分もその一つだ。

淘汰は自分の世代の直前の世代だってあったはず、その前も、その前もね。

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じゃあ淘汰されて繋がれなかった「襷」は無為なのか?無駄だったのか?

たくさん生まれて、海に泳ぎ出した稚魚の多くは他の生物に食われる。
成長しても食われる。ようやく産卵寸前まで来て、そこでも食われる。
その時「襷」は他の生物が生きる為、他の「襷」を繋ぐ為に使われる。
「襷」を繋いで死しても、その骸は海底で他の「襷」の為に使われる。

つまり、「襷」は「襷同士」で競争するだけでなく、その競争する
原動力として食ったり、食われたりしながら使われるための物なんだ。
食物連鎖というのは、かくも複雑で、かくも偉大なシステム…脱帽。

ただ、残念なことに多くの人間はその食物連鎖に加わっていない。
正確には搾取するだけ搾取するけど、還元しない生物だ。
死しても土葬にして土に還ればまだそのサイクルに入ると思うが、
火葬してしまったらCO2サイクルには乗れるが食物連鎖には乗れない。

そう考えるとチベットなどにある「鳥葬」という死体をハゲワシ?に
食わせるという葬送は、本当の意味で「襷」を自然に返せる方法だろう。

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多くの場合は他の生命に食われて「襷」を繋げなくなる事はない人間、
「襷」を持ったまま、死んでも腐って土壌に還ることも出来ない人間、

繋げない自分を含めてこの「襷」はそれならやっぱり無駄なのか?
結論を言えば、無駄にも出来る。でも無駄にならなくすることも出来る。

繰り返しになるが人間は知性を持った生物だ。しかも生命体としては
イビツな「襷」を渡した後にそれまでと同じくらい長生きする生物だ。
つまり、雄と雌として育って襷を繋ぎ、次の世代をを育てる時間よりも
それを超越した「一人の人間」として生きる時間の方が今は長いのだ。

この時間こそ「生物」として見たらば実に無為な行為と言える。
これ以上新しい命を生み出さないのに、他の命を奪って食し生きるから。
だが、そこで人間は「知性体」として活動して、間接的に同属である
人間の「襷リレー」を有形無形、様々な方法でサポートしているのだ。

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そう、俺を含めて、自分が持つ「襷」を繋げない、繋がない人達は
その人生を「生物」ではなく「知性体」として活動するのだ。

そして、その立場でこそ為せる事をこなす事で、「繋げない襷」を
無意味に消耗するだけの生き方から、ここで途絶えたとしても
今までずっと繋がれてきた事に意味がある事に出来る。

それすら放棄したら原始から途切れずリレーされた命という「襷」を、
そこまで脈々と繋がれてきた、その全てを無意味なものにしてしまう。

「襷」は自分の肩にかかっている、それをどう使おうと各自の自由だ。
でもそれには今まで繋いできた人の、命の、暖かく必死な思いがある。
そして今を生きているどんな小さな命にも一つ一つそれがあるのだ。

そして我らはそんな命を奪って日々食し、
自分の襷と一緒にその命に込められた思いも
合わせて引き継ぎながら、これからを生きるのだ。

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「命はどうして大切なのか?」 「どうして人を殺してはいけないのか」

大人に、親に、こんな問いかけをする子供がいるらしい。
確かに最近は命を蔑ろにするニュースが多い。
そしてこの問いかけに答えられない親や大人もいるという。

仮に自分が問い掛けられたら、前述したような「命の意味」を伝えたい。
俺のような無学な人間が書く拙い文章ではニュアンスすら伝えられないが。

そもそも自分には「襷」を繋いだ子供はいない。
自分の「襷」を繋げない奴にそんなことを語る資格があるのか?
と言われれば、・・・・本当は無いのかもしれないな、マジで。

でもそれでも、今までずっと繋がれてきたのに自分に託されたために
次に繋ぐ事が出来なかった「襷」を持つ者として、その「襷」を
意味在る物にするためにやるべき事の一つだと思うのだ。

今までのように、それが独り善がりだとしてもね。

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無論俺はこれだけのために生きてる訳じゃないわな、当然だ。

いっぱしの技術者として社会に貢献もしたいし
自分にしか出来ない仕事を極めたいし、それで認められたい、
そんな今時の現代人としての欲はあるし、「知性体」としては
蒸気機関程度の頭しかないがそれでも思考を回し黙考する事もある、
新しい知識や経験を得るためにまだまだ勉強も冒険もしたい。

「生物」としての存在意義はもう無くても「知性体」としての寿命は
まだまだ長いのだ。せっかくのそれを有意義に使わねばね(^^)

今までの生き様のおかげで「生物」として自分が持っていた
「襷」の意味が、そこにあった可能性の芽や、それを間引く事で得た
自分自身のポテンシャルが・・・段々判ってきたしね。

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2004.06.21

「手動」がもたらす物

子供の頃に見たアニメやSFで描かれる21世紀は「全自動の世の中」だった。

超高層ビルが乱立し、透明エアチューブの中を走るエアカーが交通手段で、
宇宙船は容易に衛星都市に行き、ロボットが街中を闊歩し、腕にはTV電話、
家の掃除は無人自動掃除機がやってくれる、ドアも窓も自動で開閉、
21世紀はそんな世界だと描かれていた。

だから子供心に、全自動化こそがすばらしい夢の技術だ、と思っていた。

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で、今は正真正銘21世紀だが子供の頃想像していた未来とは大分違うな、
一見したら前世紀である20世紀と全然代わり映えがしない世の中じゃん。

まあ、誰もがコンピューターでネットを使い、携帯電話を持ち歩き、
写真はデジカメが当たり前、薄型TVも普及して、HDDにTVを録画し、
車にはカーナビがついていて所在地が分かり、ETCで料金は自動支払化、
これはかつて夢見た未来に結構近いから、間違いなく進歩はしている。

無垢な子供の頃はそんな「全自動な未来」が当たり前だと思っていたけど、
割られ削られ叩かれ退色して一部だけは磨かれて偏屈な「大人」になったら
「全自動」に以前ほどメリットを感じなくなってしまった。

何故か?それは「全自動」の行く先が「人に判断をさせない世界」だからだ。

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「全自動」を行う機械を作る人はいろいろ考えて商品を作っているはずだ。
最先端の技術からおばあちゃんの知恵袋的ノウハウまでを集めて徹底的に
検証し、最適な結果が得られるようにチューニングして商品化している。

その商品を買って使う人はその技術とノウハウを買っているとも言える。
でも機能化されているそれを果たして理解して使っているとも言えるか?
多くの人は与えられた機能を何も考えずにそのまま盲信して使うだけだ。

具体的に全自動洗濯機を例に挙げよう。洗濯物を放り込み洗剤を入れて、
スイッチを入れれば洗濯機がその洗濯物の量を計測し最低必要水量を注水、
洗濯槽が最短最適条件で周り、排水、注水してすすぎを実行、排水、脱水し、
完了する。最近はそこから乾燥まで自動でこなしてくれる。

一時期洗濯板を使っていた自分からしたら、これは実に便利な機械だ(笑)
何故便利かと言うと「手動」でやってた事を全部「自動」でやってくれる。
故に自分はこの機械がどういう判断で、どんな動きをしているのか分かる。
そして「全自動」洗濯機が壊れたり、電気が途絶えて使えなくなっても
一度経験しているから「手動」の洗濯板にも戻ろうと思えば戻れる。

今どきの若い世代は「電気洗濯機」が当たり前で育っているだろうから、
「洗濯板で手洗い」のハードな家事労働はとても耐えられないだろう(^^;)
そもそも洗濯板とタライでどうやって洗濯するのか、衣服の材質によって
どう洗い方を変えるか…なんてのは現代人は知らなくていい無駄知識だ。

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もっと分かりやすい例を一つ挙げてみようか、例えば車の変速機構。

今はATが当たり前。実際世の中を走っている車の9割以上がATだろう。
今では多くの人がAT限定免許を取り街中を走る。それも納得出来る。

でもATしか乗れない人は何かでMT車を運転しなければいけなくなっても
運転出来ない。機械が「全自動」でやってる事をやればいいだけだが
その仕組みが分からないとクラッチミートすら出来ないのではないか?

逆にMT乗りはMT車は当然乗れるしAT車も普通に運転する事が可能だ。
それは車の変速機構がどんな働きであり本来人間がやることを
機械が代わってやっている、いう事をちゃんと理解出来るからだ。
人と違う判断で勝手に変速されると違和感を感じたりもするけどね。

MT車であってでも「それ以外は全自動化」された車、例えば○菱の
ランエボとかは本来人間が判断して操作すべき事を機械が勝手に
補正してくれる車だ。だから「誰が乗っても凄く速い車」だけれど、
それしか乗った事が無いドライバーが同じような4WDターボだけども
実に愚直に作り込まれてるスバルのインプレッサや、大馬力FR車、
ライトウェイトFF車に乗って峠を走ったら…危ない目にあうだろうな。

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ちょっと脱線するが、自分は今まで所有した四輪は全てMT車だ。
今のレガシィB4-RSKも5MTだし、アトレーMXターボも5MTだ。

でも実はATは嫌いじゃない。なぜなら「楽しい乗り物」ではなく、
「楽な乗り物」としてはMTよりATの方が圧倒的に優れているから。
これは両方乗って分かった、自分なりに辿り着いた四輪の結論。

乗り物を操る楽しさと難しさは、完成度と安全性の高い四輪よりも
不安定で危険な二輪の方が数段上だ。だから単車乗りな自分としては
中途半端な四輪のそれをわざわざ求めなくていい、なら楽な方がいい。

でも今の生活は四輪に「楽」を求める必要が全く無いからMTでいいのだ。
MTは「楽」ではないが何となく単車に似たフィーリングが得られるので
ATよりもずっと「楽しい」。でも都心や高速の渋滞にハマると疲れるから
そういう場合は二輪に乗って出かけるので上手く住み分けも出来るのだ。

もしB4がMTでなくATだったら、「楽しい」けど「楽ではない」単車には、
日常で全然乗らなくなり、そればかり乗るように日和ってしまうだろう(^^;)

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・・・激しく脱線したが、話を元に戻そう。

このように「全自動」化を果たした技術の進歩によって、本来だったら
伝承されたり習得せねば使えない「技能」や「ノウハウ」が多くの人に
手軽に使えるようになった。その功績は間違いなく大きい。

でもちゃんと習得しなくても使えるようになる、という事は本質を理解
しなくても使えてしまう、という事であり、転じて何も考えなくてもいい
「ブラックボックス盲信主義」化しているとも言える。

実は何よりもこれが一番ヤバイと思うのだ。

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自分は紛いなりに技術者だから技術で語れない迷信じみた物は信用しない。
技術で語るためにはその原理原則、基本動作などの本質を理解する事が
必要であると共に重要だ。その本質を理解して初めて応用を理解出来る。

例えば「活性水素水」とか「トルマリン配合シートで燃費&パワーUP」等、
そういう学術的、技術的に説明(証明)出来ないものは殆ど信用しない。
こういう怪しい商品に限ってなんとなく難しい学術用語をそれらしく並べ
いかにもすばらしい商品!、と吹聴しているが大体は嘘八百なシロモノだ。

こういうモノが出てきて、それに騙されて金を使ってしまう人たちは
恐らく「全自動」に慣れきっていて、根拠無き権威を振り翳されると
その本質を追求したり検証せず、ただ機能だけを求めてフラシーボ効果で
満足してしまうタイプ、良く言えば純朴、悪く言えば愚鈍、だと思うのだ。

自分で情報を集めて判断を下す、という生き物が生き延びるのに不可欠な
行為を放棄して、誰かが言うがままをそのまま信用してしまうからだ。
騙そうとする側からすれば、まさに赤子の手を捻るようなもんだろう。

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間違いないのは「機械は単に人間の働きの代役をしている」って事だ。

船ならばオールで漕ぐ古代のガレー船とディーゼルでスクリューを回す
現代の船舶、速度や積載能力は全然違うけどその本質は変わらない。
エンジンだろうがオールだろうがそれは船を進める動力の違いだけ、
風を読み天候を判断し、浅瀬を回避する制御をするのはどちらも人間。

レーダーやGPS、音波ソナーなどで有る程度自動航行は出来ても、
最後に必要なのは人の判断、完全無人全自動航行は多分無理だろう。

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最新の全自動な機械を使う事が問題だ、とジジイの小言のような事を
言っている訳ではない、せっかくある便利なモノは使わなきゃバカらしい。
でもそれらが無かったら生きていけない、と言う様に束縛されてもダメだ。

どんな便利な機械も道具に過ぎない、それに支配されたり依存したり
仕組みが良く分からないけどなんとなく盲信したりしていたら、
思考能力や判断能力といった脳力、動物としての体力が低下するだけだ。

かく言う偏屈な自分自身でさえ人類が脈々と築き上げてきた機械文明を
全て捨て去ることは、それによるメリットよりデメリットが多い上に、
コストが莫大に嵩むので日常生活で「無理にやる」つもりは全く無い。
実験の結果必要無し、と判断すればガンガン削減するけどね:-p

要は人間がイニシアチブをしっかり取って機械と上手く付き合えばいい。
「全てが全自動」ってのは前述の通り脳や体が退化しそうで芳しくない、
機械が得意な所だけを美味しくツマミ食いする「半自動」がベターだ。

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人間はどんなに注意しても必ずミスをする生き物だから「半自動」で
人間の判断が介在する状態にしておく事はトラブル発生の原因になる。

でも人間はミスをする事で経験を積み、学習し進化する「生物」だ、
機械はミスをしても自分で修正したり改善したり学習したりはしない。
CPUが入っていてそれなりに自己診断する装置でもプログラミングした
以上の仕事はしてくれない。

そもそも失敗は致命的でない軽微な物ならバンバンした方がいいのだ。
その数だけ経験を積み、失敗を学習して初めて「成長」出来るからだ。

前にも書いたけど、痛い想いをして初めて分かる事は数多いから、ね。

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壊れたバイクを押して、いつもなら数分で上る坂道を汗だくで登ると、
ガソリンが燃える事で得られるエネルギーがいかに凄いのか分かるし、
いつもは見過ごしていた脇の草むらに、可憐な花が咲いているのを
発見出来たりもする。これらは「手動」でしか体験できない世界だ。

そう考えると、21世紀になってもSFチックな世の中にならなかったのは
人類が怠けていたからでなく、正しい進化をしているからなのかもね。

例えば全て「全自動化」された未来に人間が全自動尻拭き機を使って
自分の尻拭いすらしなくなって、それで強く擦られて怪我したとかで
メーカーに巨額賠償金を求めてPL訴訟を起こすような情けない世の中は
どんなに便利でもちょっと勘弁して欲しいもんなぁ(苦笑)

…と、言いつつ職場のウォシュ○ットは使ってるけどさ<ばき!

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2004.06.16

幸せは自由を失って掴むもの

自分もその一組なんで大きな声では言えないが、最近離婚が多いらしい。

来る2007年には離婚夫婦でも厚生年金分割が行われるようになるから、
瞬間最大風速でどっと増えるのではないだろうか?

夫婦で仲良く二人分の年金を使っていっしょに楽しく暮らせたほうが、
いがみ合ってその結果少ない年金を等分に割り、それで別々に暮らすより
絶対いいと思うんだけどな(苦笑)

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想いがとっくに涸れ果てて情すら無くなっていても、経済的な面だけで
繋がっている夫婦ってのはこの世の中に少なくないと思う。
伴侶が友人知人以下の単なる同居人程度の存在に成り果てていたり、
日常会話すら殆どない家庭内別居状態なんてのは悲しい状態だよね・・・

それは不毛だ、自分を解き放て、と言う声も理解できる。確かに辛いから。
でもそれがカネでも「絆」の一つだから、全て断ち切った自分からすれば
最後にそれしか残っていない夫婦でもちょっとだけ羨ましいカモ(苦笑)

なかなか治らぬ酷い水虫に悩む人が、その痒みについに耐えかねて、
もうイヤだ!と足を切断してしまう、これで永久に痒みから開放される!
でも痒みから開放されて冷静になって後から考えると、いくら痒くても
やっぱり足はあったほうが無いより遥かに良かったと後になって思う…
もう痒くはないから、楽ではあるけど代償は大きい、そんな感じかな。

病巣が水虫でなく壊死して腐敗し始めてたら、もう切断するしかないけど。

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夫婦の「絆」を当の本人がどう考えているのかまず考えないといけない。

 A)それはどんな嵐が来ても流されない生活や心の安定を生む「錨」か
 B)それとも出たくて仕方ない牢獄に自分を縛り付けている「足枷」か

AもBも同じ「何かを繋ぎ止めている」物だけどその意味する事は正反対。

でも考え様によっては「錨」は船が自由に航海出来ない「足枷」そのもの、
「足枷」は牢獄であっても嵐をしのいで飢え死にしない安定した暮らしを
一生約束されている、実は自分を守っている場所なのかもしれない。

このように見方や捉え方により違って見えるそれは、実は全く同じ物。
それが「絆」ってもんだ。

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要するに夫婦っていう関係は「ラブラブ」でも「枯れ果て」ても関係なく
必ず互いの「個人の自由」を束縛し合う事で成り立っていると言える。

でもその結果、一人では到底到達する事の出来ない遥か高い所に辿り着く
「強さ」と「幸せになる権利」を得る事が出来る。実際「幸せ」になれるかは
そこからの努力次第だが、その貴重な「権利」は「個人の自由」の犠牲の
上に、当然全部ではなくある程度だが、成り立っている、これがポイントだ。

植物に例えれば一本の蔓草は添え木や他の木がないと自立は困難だけど
横に伸びる方向は自由自在。それに対し二本の(又はそれ以上の)蔓草は
互いが絡みつく事で互いを支え合い、添え木なしでも自立して上へ上へ
成長して行くが、互いが絡み付くことで自由度を失う、そんなイメージだ。

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夫婦となることで失ってしまう個人の自由より、それによって得られる
精神的充足感や幸福感は一人では絶対に成しえない、より高次元の世界だ。
だからこそ人間は結婚して子を成し、原始から脈々と繁栄してきたのだ。
つまり人間が生きるこの世の中には、以下の大原則が常に成立している。

 「個人の自由」<<<「家族である幸せ」

乱暴に要約すれば、男と女が夫婦という一単位として暮らす結婚生活とは
互いが互いの為に自由を失う、正確には双方で奪い合う事で生じる犠牲を
互いに許し合える愛情と、そこを基点として今までと違う新しい幸せを
二人で共に目指していける信頼関係があって初めて成立するもの、だろう。

つまりそのどれか一つでも欠けたら、夫婦は夫婦ではいられなくなる。
愛していても許せない、とか、二人で目指す所がバラバラ、とかね。

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で、最近の離婚増加という社会現象を当事者でなく客観的に考えると、
今の世間は「個人の自由」ってのを超過大評価しているように思うのだ。
尊重されるべき基本的人権と、個人の自由を実に都合よく混同している。

自立した個人の自由ってのは確かに尊重されてもいい、それは認めよう。
確かに他人に強制的に自由を奪われたらたまったもんじゃない。だけど、
それは人権のように「何人タリトモ侵スベカラズ」なモノとは違うんだ。

親や兄弟、愛する伴侶や自分の子供、己が信じる宗教や大切な物の為なら
つまり『本人が納得すれば』捨ててしまっても全然かまわない物なんだよ。

その本人が納得してる価値観と違う価値観を押し付けお前は間違っている!
と声高に批判したり思想を無理に変えようとしたら、それは人権侵害だ。

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残念ながら今の世情は良く言えば自由万歳!実は総無責任社会と化して、
最近は「自由」を「権利」と履き違えた連中が余りにも増えている。

「権利」ってのは「責任を果たす義務」が必ずセットで付いてくるものだ。
そして「責任」は「自由を制限されて」背負うもの…つまりこんな感じ。

 「自由になる」≒「責任は無い」≒「義務から開放」≒「権利は放棄」
 「権利を得る」≒「義務を果たす」≒「責任を負う」≒「自由は制限」

こうやってよくよく見ればこの二つが同じである訳がないだろ(苦笑)

「個人の自由」が何よりも一番大事で、そのためなら何をしても許される、
だから一度つけたケジメを蔑ろにして、夫婦で交わした有言、暗黙の約束、
人として、夫婦の相方として最低限のルールを良心の呵責無く平気で破り、
結果、無償の愛や全幅の信頼という人間同士が築ける一番美しくて儚くて、
強そうだけど実に脆いその関係をゆっくり、又は一発で壊してしまうのだ。

夫婦間では「俺は、俺は」「私は、私は」と個人の都合や利益だけを求め
主張せずに、個人としての人格をお互い尊重しつつも、常にどこかで
お互いが相手に譲歩した形で、「俺達は」、「私達は」と、二人で一つの
共生関係である事を互いに理解してる事が必要。←ここ試験に出るぞ(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
現実はこんな単純に割り切れたり、簡単に相互理解は出来たりしないけど。

------------------

過去は自分の土台に過ぎず、重要なのはその上にこれから何を築くかだ。
現在や未来を見据えて、そのために自分が今から何をすべきかを考えて、
過去に謳歌した「自由」を捨てて代りにその為の「責任を背負う」のだ。

「責任」っては重いし背負うのは辛いけど、それにより「幸せになる権利」
を得る事が出来る。これは努力さえすれば必ず花開き実が成る…はずだが、
それを一度得たはずの自分は、己の力量及ばず結局それを失ってしまった。

確かに一瞬は「足枷」を外した開放感もあった!だけどそう思ったモノは
先ほど延べたように「絆」だった訳で、結局自分に残ったのは虚無感だけ。
先日書いた様にこの意思決定は後悔していないが、「残念」だったと思う。

その後は「錨」を嵐の最中に切り離して、なされるがまま波風に翻弄され
結果流され辿りついたのは、広大で掴み所の無い「自由」という大海原。

最初は何をどうして良いのかサッパリ見出せず、ただボーっと過ごし、
次に相方というオールを失ってるのに自分のオールだけを漕ぎ始めた。
力いっぱい漕げば、もしかしたら先に進めるんじゃないかと思ったのだ。

でも片方のオールだけ漕いでも同じ所でくるくる回っているだけだった。

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それでも誰も困らなかった、なにせ今の自分には背負う物が無いからね。
自由ってのはつまりそういう事、足踏みしても後退しても止まってもOK。
でも一年間くるくる回り続けてこの立場での自由は十分に満喫できた、
と言うより飽きた、いや、嫌になった、と言った方がいいのかな(^^;)

今は「このために俺は生きている!だからバリバリ働くぞ!うぉりゃ!」
という以前有ったけど、今は無い、単純明快な「生きがい」が欲しい。
一生独身を決めたOLが自分の今後の拠り所と生きがいを求めて駅前の
マンションをローンで買う気持ちが、今の自分なら理解出来る気がする。

俺も一時あこがれた「家付きのガレージ」を思い切って建ててみようか。
幸か不幸か、一戸建てを買ってローンを払い続ける位の稼ぎはあるしな。

1Fはシャッター付フルガレージ、車3台+バイク10台+作業スペース。
そこにトランポとセダンとライトウェイトスポーツカーを収めるのだ。
バイクも全部屋内保管、一通りの整備が出来る工具類も揃えたい♪
2Fは2LDKマンションのような普通の間取りの住居+倉庫になっていて
その上にはフラットな屋上があって、そこで雨水や太陽で遊べたりして、
さらに庭もあって好き放題に野菜を植えられる、そういう住処が欲しい。

家族は無くてもそんな住処で猫と一緒に暮らせば、まあまあ幸せだろう。

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そういう明確な人生の目標を立てて、それに常に目を向けて走らないと、
しかも自分の人生という道を走る=生きる時は、常に何かの責任感という
トラクションをその道にかけないと上手く走れない=上手く生きられない。

人生無責任モード、つまりエンジンをブンブン回し闇雲に馬力を誇っても
責任感という適度な荷重でタイヤを路面に押し付けていなければ
ホイルスピンするだけでちっとも前に進まない、ただ消耗するだけだ。

責任ってのは重過ぎたら走れないし、車軸が折れて自滅するだけだけど
それが全然無いと、どこへ吹っ飛ぶか分からなくなってしまう(笑)

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今までの自分はそれ以前の無負荷な状態。つまりクラッチが切れてた。

エンジンから発した馬力が車輪にすら伝達されず、ただ以前の勢いで
惰性でまだ動いている、というだけだった。こんな状態を続けたら、
燃料とエンジンを消耗するだけですぐリタイヤする羽目になっちまう。

ポンコツだけど、まだエンジンは回る(仕事は出来る)、燃料(寿命)も
多分半分くらいは残っているはず。今の自分に必要なのはそこから発する
馬力を使って未来へ前進するために、まずは切れてるクラッチを繋ぐ事!
・・・たったそれだけの事を把握するのに一年も掛かってしまった(自爆)

そして空転するホイルを押さえ込み人生というコースをしっかりグリップし
制御して走るための適度なダウンフォース、つまり何らかの責任という、
人生への荷重不足に気が付いた。

…この例え話はモータースポーツ好きの人でないと判らないな(^◇^;)

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まあ家を建てるってのは一生に一度の事だからまだ夢の域を出てないけど
これから有り余る自由を少しずつ引換えて義務と責任を背負って行く予定。
結婚し一度手にして、離婚し失ったそれとは、全然形の違う物になるけど、
義務と責任は背負った分だけ「幸せになる権利」が得られる…からね(^^)

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ちなみにここまで書いてきて何だが、こんな風に何となく判ったような事を
書いている俺がそもそも結婚に失敗したバツイチ野郎だから(自爆)
ラブラブな夫婦や未婚な人々から見たら実に説得力に欠けるだろうけど、
これらは結婚生活という戦場で戦い、力尽き敗れた人生経験に基いた、
今の自分なりの持論なんよ。


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2004.06.14

丸刈りの功罪

書く前にカテゴリーを選ぼうとしたらココしかなかった。
ちょっと、いや、かなり違う気がするけど、まあいいか。

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中年サラリーマンな自分はここ2年程、ずっと丸刈りを続けている。

最初の理由は実にくだらなくて、たしかハードな現場仕事をした
徹夜明けの激務終了後に事務所の給湯室の瞬間湯沸かし機の湯と
ママレモンをシャンプー代わりに使って頭を洗っていた時に

「ああ、坊主頭だったらもっともっと楽なのに」

と思った事だった…ような気がするがあまり記憶は定かでない(^^;)

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今も丸刈りを続けているのは大体以下のような理由があるから。

安々お子様バリカンで自分で刈る事で通常の理髪店に行くよりも
圧倒的コストダウン可能という、生臭いが金銭的メリットは大きい。

石鹸一個で身体も洗髪(洗頭?)も出来て、使う湯量を節約出来て、
風呂上りにタオル一発で頭をふき取れて、ドライヤー不要等々、
様々な面で、実利あるライフコスト削減が可能な髪型だ。

人が脱げる最後の服である髪を「ほとんど脱いだ」丸刈りは
貧乏生活、節約生活、ズボラな性格の人には最適だと思う。
櫛だ、ブラシだ、寝ぐせだ、スーパーハードムースだ何だぁ!と
一々面倒なヘアケアしなくていいメンテフリー化は大きなメリットだ。

そして最先端現代医学を持ってしても根治不能な不治の病であり
中年男の宿命でもある壮年性男性型脱毛症に侵されてしまっても
一々抜け毛や日に日に薄くなって行く髪の毛を気にしなくて良い、
という精神衛生上のメリットも、相当に大きい(自爆)

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それ以外にもごく普通の平々凡々人にはならん、という自己主張、
坊主頭だ!文句あるのかコラァ!という一種の自己表現も兼ねてる。

一度会った人が自分を覚えてくれるという仕事上のメリットもある。
技術職なんで相手に威圧感を与えても一向に構わないし<ばき

他にも自前でこまめに刈ると、いつも見てくれが同じでいられる。
自分のペースだと大体2週間に一度、自宅で適当に刈っている。
職場と宿舎にカンヅメとなる現場出張時は理髪店に行く暇もないが、
丸刈りならば、ビジホや寮などに帰り着いて風呂に入る前に
ガガガガッ!とお手軽に刈ってそのまま風呂に入ればそれで完了。

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他には今までに背負った災厄や、人間故の消し得ぬ数々の煩悩、
自分が今まで生きてきた事により犯した数々の罪(注:犯罪ではない)
そして今後もそれを繰り返しながら、なお生き続けるだろう、その意味を
これから探すために、大げさに言えばいつの日か悟りを開きたいために、
出家して仏門に入る……訳じゃないのは言うまでも無いが(苦笑)
それに近い心境になりたい、という精神的願望の意味合いや、

人生に失敗して普通の生き方が出来なくなった己に対する懲罰、
夢見て失った未来を自ら再び未練がましく求めたりしない様に
それを自ら出来なくするための自傷行為的決意表明?と言おうか、
そんな意味も込めているつもりだ。

他にもまだ色々あるけど、大雑把に言えばこんな所だな。

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これが普通の人だったらこういう事を髪型で表現したり、こういう形で
一々公開せず、口にも出さず、ずっと心の中に仕舞っておいて、
自己処理出来るんだろうな。

でも自分は心が弱い、とても弱い。人間として弱い心しか持ってないから、
後で挫けた時に自分自身に言い訳したり自分の行いを歪めて解釈し
後々になって正当化しないために、口に出して発言したり文章にしたり、
こうやって頭を丸めてたりする。

確かに理想は「何があっても男は黙って耐える」もんだ、理想は…ね。
そんな理想通りの男には自分はなれなかった。演じる事は苦しすぎた。
だからダメ男としての烙印が戸籍に刻まれたのだろう(苦笑)

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おっとっと、自虐ネタはこの辺にして、丸刈り賛歌を続けようか。

丸刈りにする前はオールバックだった。だから最初は当然躊躇した。
家を出る時は五分刈りだぜっ!という意気込みで床屋へ行くのだが、
椅子に座ってから理髪師に「どうしますか?いつものように?」と
尋ねられた時に鏡に映る自分の丸刈り後の姿を想像しただけで
当初の意気込みは萎えてしまい、

「い、いつもより短めでお願いします」
「ス、スポーツ刈り…でお願いします」

という、段階的玉虫色な発注を数回繰り返してしまった(自爆)
だからある日思い切ってなじみの床屋ではなく、
わざと今まで行った事の無い激安理髪店に入って五分刈りを依頼。

業務用バリカンの先端に五分刈りアダプタを装着した若い理容師は
何の躊躇いも無く、唸りをあげるバリカンを頭皮に当て、走らせた。

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丸刈りはバリカンさえあれば何の技術も無くあっという間に出来る、
それを鏡に映った、わずか数分で丸刈りとなった自分を見て気付く。

その後もみ上げと耳周り、うなじにカミソリが当てられ、顔面も
カミソリを当てて綺麗サッパリ!所要時間も僅か十数分で終わった。
会計時に丸刈りは通常の理髪より安いと初めて知った。

思い切って大変身したつもりの五分刈りだったが、街行く人たちの
視線が集まる気配は無く、本人だけがビクビクしてる事に気付いた。

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そうなると段々大胆になり、三分刈り、二分刈りへとエスカレート。
二分刈りになると、もう床屋に行くのがバカらしくなってしまい、
お子様バリカンを買って自分でやってみようと思った。
なにせ一回の丸刈り理髪代でお子様バリカンが買えるのだ。
#それにもし失敗したら剃っちまえ!とさえ思ってたし(笑)

広い明るい床に鏡を置いて、手前に新聞紙2枚を半分ラップさせて敷き、
上半身裸で新聞紙の手前に膝を付いた姿勢で頭を新聞紙の上にして
「6mm残しアダプタ」を装着したお子様バリカンを恐る恐る頭に当てた。

頭の位置を極力新聞紙に近づけて刈ると髪の毛が飛び散らずに済む。
その姿は傍から見たら土下座しつつ頭を丸めてる様に見えるだろう(自爆)
#そうならば日本人男性としてこれ以上は無い最大級の詫びの姿だな

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頭皮の面積なんてたかが知れてるので実際に刈ってる時間は僅かだ。
トラ刈りにならないように一度刈った場所を何度も何度も刈る。
その時同じ場所をあちこちの方向から刈るのが重要なポイントだ。
そうしないと髪の毛の生える向きによっては6mm残しアダプタを
装着したバリカンで刈っても2cmほどの毛が残る事があるのだ。

特に鏡で見えない後頭部とうなじのあたりは手探りでも念入りに
やらないと丸刈りとは別の意味で街の視線を集める羽目になる。
・・・・と、経験者として忠告しておこう(^^;)

上半身裸になるのは刈った毛がシャツの襟元に付くとチクチクと
痛いから。細かい短毛がシャツに付くとなかなか取れないのだ。
刈り終わったら素手で頭を掻き毟り頭に残ってる刈った毛を落し、
その後、石鹸やシャンプーで2回洗う。一度では落としきれない。

洗い終わってタオルで頭を拭いたその瞬間から
丸刈りの恩恵をリアルに感じる事が出来るだろう。

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ちゅー事で、一度丸刈りに慣れるとなかなか他の髪型に出来ない。

訪問販売が来たら、プロフィール画像にあるような顔をして
「・・・・で、何よ?」と数回繰り返すだけで帰ってくれるし、
エ○バの○人やモル○ン教の宗教勧誘が来たら「お勤めご苦労様」
と、合掌して一礼してから「で、どのようなご用件で?」とすれば
大体素直に帰ってくれる。ああ南無阿弥陀仏、お釈迦様万歳(-人-)。
#朝○新聞の勧誘も「サヨクは嫌いでねぇ」と言うと素直に帰る(笑)

なお当然だが欠点もある。ヨタ話の最後にいくつか挙げておこう。
自分はこれらを加味しても当分丸刈りをやめるつもりはない。

 ・冬は相当寒い、耳周りまでカバーできるニットの帽子推奨
 ・夏は耳や頭皮が日焼けする、炎天下での作業時は麦藁帽子推奨
 ・自分のように脱毛気味の人やもう無い人は頭皮を蚊に刺される。
 ・オンナ受けは当然良くない、嫌なら坊主頭なんてしないこと。
 ・善良な市民&健全な納税者なのに悪人面呼ばわりされる、なぜ?
 ・サングラスをかけているとたまに小さい子供が泣く、なぜ??


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2004.06.09

じゃあ電気は本当に必要か?

日々思うのだけど、人間ってのはエネルギーを浪費する生き物なんだよね。

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昨日LPガスをリストラする事で生活費削減を紹介した通り、ガスというのは
熱源としてのエネルギー源なので、代替エネルギーさえ用意出来れば削れる。

だが日常生活でもう一つのエネルギー源の電気を使わず暮らすのは難しい。
なにせ「万能」なエネルギーだ、熱源だけでなく明かり、動力、通信、
今PCを稼動させているのも電気だ。充電すれば自転車だってアシストするし
未来の自動車は間違いなく電気とモーターで走るようになる。

これ無しに生活するのは、つまり江戸時代以前のような暮らしをする事だ。
それはそれで魅力有る生活ではあるが、それを労力で補うのは本当に大変。
なにせ自分は結婚する前は洗濯機を持たず洗濯板で洗っていたのだ(実話)
風呂場で洗濯板で一週間分の洗濯物を洗うのは相当キツイ半日仕事だった。

今は結婚する時に購入して、離婚した時に引き取った全自動洗濯機がある。
だから洗濯とは干す手間とたたむ手間だけ、洗濯板時代と比べるまでもなく、
それを家事労働、と真顔で言うのが恥ずかしくなる程にラクチン(^^)♪
これぞ電気で成せる業だ。

それに壁のコンセントにプラグを差込むだけで湯水の如く使う事が出来る
電力会社から供給されてるこの電気、日本の電気代は世界レベルで高いと
よく言われているが、世界中でこの値段でこれほど安定した品質で
供給されている国はそう無いだろう。

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かれこれ5年?程前、諸般の事情で中南米の某国に一人で行った事がある。
あのコロンブスの墓があるその国は日本やアメリカ等の先進国と比べたら
確かに貧しい国だが、ガタガタだけど車は走り、ボロっちいバイクも走り、
高級スーパーに行けば食材は溢れ、高いけど日本製のテレビなども買える。

でも電力事情は悪い、計画停電は当たり前、突発的な停電も多々発生した。
電気だけでなく水道も突然断水したが、なにせ発展途上国だから仕方ない。
逆にそこに一週間いたらそんな生活に慣れた。

西語で叫ぶカウボーイが映るTVが突然切れ天井の扇風機が止まったっけ。
夜の街は街灯も少なく宿に帰る途中、頭上に煌く満天の星が綺麗だった。
バスルームで蛇口を捻って水が出ればラッキー、出なければ事前に水を
張っておいた大きな水色のゴミ用ポリバケツから水を汲んで頭から浴びた。
エアコンなんてないからその水は冷たかったけど気持ちよかったっけ。

そんな国で人々は貧しさを微塵も感じさせず陽気に笑顔で生きていた。
小奇麗な背広を着て肩を落し疲れた顔で街を行く日本のサラリーマンとは
好対照だ。どっちの暮らしが人として幸せなのか・・・考えさせられた。

帰国途中に一泊したアメリカのホテルで、蛇口を捻れば暖かいお湯が
欲しいだけすぐに出る利便性と、窓から見えたフロリダの眩しい夜景に、
違和感すら覚えたっけ。なんでここまでする必要があるの?ってね。

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おっとっと、回想モードに入っちまった、話を戻そう。

電気代、これを節約するのは大して難しくない。大電流を使う電化製品を
単に使わなければいいのだ。自分の家には贅沢品たるエアコンなど無いし
普通の冷蔵庫も電子レンジも無い、TVも14インチだから大して食わない。

次は節約生活の王道、使って無いのに流れている待機電流を減らそう。
一般にはTVの主電源やビデオデッキ、湯沸し電気ポットなどが有名だが
実は以外なモノが電気を食っている。代表例を挙げておこう。

 ・デスクトップPC (ATX以降は背面の主電源を切らねば食う)
 ・ノートPC    (ACアダプタをコンセントに刺しっぱなしだと食う)
 ・電気釜     (保温でもタイマーでもなくプラグ刺すだけで食う)
 ・全自動洗濯機  (これも電気釜同様にプラグ刺すだけで食う)
 ・MDラジカセ   (微々たるもんだけど食う)

大雑把に言えばスイッチに力を込め「ガチャ!」と入れる装置は食わない
だが「ピッ!」と軽く押すだけでスイッチが入る電化製品は常時僅かでも
必ず電気を食ってると思っていれば、大体間違いないだろう。

これらのコンセントを抜き、こまめに明かりを消し、TVをあまり見ないで
デスクトップPCを使わず古いノートPCばかり使う等の節約を実施したら
ある月は電気代が1700円程だった。30A契約の基本料780円込みで、だ。

だが、待機電流カット以外はあまりケチケチしないで体感で2倍以上は
電気を使ったつもりで生活したら、翌月の電気代は2200円だった。
かなりの労力を費やして努力をしても思った程の節約は出来ないのだ。
逆に節約する事で日常生活で得られる時間と利便性を著しく損っている。
つまり電気代は「ちゃんとカネを使うに値する費目」なのだ。

だから思った、電気代をこれ以上削れないのなら、作ってみようと。

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自家発電するなら屋台で使う様なエンジン発電機が一番安上がりだ。

だがそんなのを毎日庭で回していたら五月蝿くて近所迷惑この上ない。
それに化石燃料を燃やしCO2を吐き出す行為は乗り物でやってるから
日々の生活は極力自然エネルギーで賄いたい、そこでヤフオクで
中古の大型太陽電池パネルを購入して、色々実験してみる事にした。

入手したのはシーメンス製単結晶型12V20Wと京セラ製多結晶型12V40W、
中古でも合計で4万円程した。それは実に1年半の電気代に相当する額だ。

B4とアトレーのバッテリーを交換した時に古いのを捨てずに取っておき
このパネルに充電コントローラーを経由して繋ぎ、日中は太陽で充電し、
夜、帰宅後にDC-ACコンバーター経由で家電製品に繋ぎ、太陽パワーを
家庭用電源として使う独立系太陽光発電システムを自作し庭に設置した。

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太陽は時々刻々と動くため太陽電池パネルに入射する光の角度が変わり
発電量も変わる。20Wのパネルが20Wで発電するのは晴天の一日でたった
3時間しかない。つまり合計60Wのパネルが3時間発電したら180W。

これをバッテリーに充電する時とDC-ACコンバーターで交流にする時に
ロスするエネルギーも無視できない。大体自分の「太陽光発電所」から
取れる電力は一日でせいぜい100Wが良い所だろう。

つまり14インチのTVなら一時間半ほど見れるし、ノートPCなら約3時間、
使えるし10Wの蛍光灯スタンドなら一晩点灯出来る・・・たったこれだけ。

一年間晴天が続いても36.5KW、実際は概ねその1/3とすれば12KWの発電。
この為にDC-ACコンバータやコントローラ、バッテリー維持等も含めて
大雑把に5万円弱程の初期投資をした計算になる。

ちなみに同じ電力を壁コンセントから使ったら電気代はたった264円!
なんと単三アルカリ電池10本分ほどの値段に過ぎないのだ。
つまり初期投資の元を取る、なんてのは計算するだけ無駄だ。

このように太陽光発電で節約生活するなんてのは夢のまた夢だ。
それに金を使うなら電力会社から電気を買う方が圧倒的に安い。

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ここまで読んだ人は自分が貧乏を気取る割にひでぇ無駄使いをした、と
思うかもしれない。確かにこの太陽光発電システムは蛍光灯スタンドを
灯したりラジオを鳴らしたりノートPCを駆動する程度の、日々の生活で
実用とするには程遠い能力しか無い。

だが、これを持っている事で、仮に何が起きても、太陽が照り続ける限り
細々とだけど自力で電気を作れる。つまりもう自分には「電池切れ」や
「停電」は無い、って事なんよ。

貧乏太陽熱シャワーと同様、大災害などで停電が長期化して電気という
最重要インフラが途絶えても、暗闇を照らす明かり、情報を収集する
TVやラジオ、アマチュア無線や携帯電話とノートPC等で情報を発信する
必要最低限のインフラを、平常時は太陽で遊ぶために細々と使いながら
ちゃんと自前で確保したと考えれば、あながち無駄使いじゃなかった。

結論として「健康で文化的な社会生活をするために電気は必要」なんだ。

平常時には無理に使う必要は無いので日々節約するに越した事は無いけど
ただ闇雲に減らすのは逆効果、「必要経費」と割り切って使わなきゃ損だ。
なにせ電気が無いと文化生活の象徴たる各種家電製品、ケイタイもPCも、
何の役にも立たない邪魔なだけの不燃ゴミに成り果てちまうじゃないか。

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・・・でも単に「生きる」為ならば電気なんて無くても俺は生き残れるな。
例えば暗闇を灯し、暖を取り、調理するなら焚火があれば十分だよ。

人類が電気を大量に使うようになったのは高々100年程前からだろうか?
でもそれ以前も原始の頃から人間は電気無しでずっと生きてこれたんだ。

自分の経験からしても当時の生活は今と比べて相当不便であったろう、
だから昔の人々は今より不幸だった?・・・そんな事は無いだろう。

人はモノやエネルギーを浪費する「だけ」では、幸せにはなれないんよ。

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2004.06.08

LPガス(都市ガス)は本当に必要か?

実はライフコストを削りすぎて、今まで自宅の風呂桶に入った事が無い。

今の家に引っ越してきてからそろそろ一年経つのだが、結局LPガス屋と
契約せずに過ごしてしまった、やればどうにかなるもんだ(笑)

ガスというインフラは生活する上で具体的に何のために必要なのか?
突き詰めて行くと「調理」と「風呂」、この二つだけに絞られる。
それ以外の用途(暖房等)は他の方法でもっと安く達成できるので却下だ。

LPガスは野郎の一人暮らしでも毎月2000円強の基本料と2000〜3000円の
使用量に応じた料金が発生する。今の生活に入る前まで、コレを節約しよう
とは思っても、オールカットして暮らせるような物だとは思わなかった。

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でも、一年前に今の家に引っ越した時、その一ヵ月後に2ヶ月ほど地方出張が
予定されており、使いもしないLPガスの基本料金を払うのがバカらしくて
帰ってから契約しようと思い、出張までの一ヶ月間はカセットコンロで調理、
風呂は平日は2日に一度の銭湯、週末は車で一時間の実家の風呂で凌いだ。

出張から帰還してその家で生活を始めた時には、もう節約モードに突入して
いたので「LPガス無しで生活してやろうじゃん」と決心し、頭を絞った。

調理に関してはカセットコンロだけで何一つ不自由なく生活出来る。

なにせバイクで放浪の野宿旅をするのが趣味なのだ、必要最小限の道具で
生きる術を身に着けている自分からすればカセットコンロはゴージャスな
道具とも言える。

実際、結婚する前の一人暮らし時は電気釜すら使わず自宅のガス台で
キャンプ用コッヘルで米を炊き、18cmフライパンとユキヒラ鍋だけで
何でも作っていた。つまりまたその頃と同じ事をやればいいだけ、
不幸ではあるが実に簡単な事だ。

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今も遊びで焼き物には七輪を使っているが、主力はカセットコンロだ。
なぜカセットコンロなのか?手軽かつ燃料代が圧倒的に安いからだ。

カセットコンロ用ボンベは近所の底値で3本185円、一本60円チョイだ。
煮込みやスパゲッティーやソバ、ウドンで大量の湯を沸かしていても、
一週間で2本使う事は滅多に無く、通常10日で一本の割合で消費してる。

つまり毎日自炊をしても調理に使うガス代は一ヶ月200円で足りるのだ。
最近は焼き物を6kg360円の特売木炭を使って七輪でやるので更に
コストダウンしているはずだ。

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だが、風呂だけはカセットコンロでは沸かせない、と誰もが言う。
自分もそう思っていた。でも銭湯に毎日と言わず二日に一度行ったら
車のガソリン代まで考えるとガス屋と契約した方が圧倒的に安い。

かといって身体を洗わず獣臭い体臭のまま仕事するのは社会人失格、
と言うより何より自分自身が耐えられないので嫌だ。じゃあどうする?

 1)風呂桶にお湯を200Lも張るから大火力のLPガスが必要なんだ。
 2)じゃあ自宅では湯を張らずにシャワーだけで身体を洗えばいい。
 3)つまり「温水をシャワーする仕組み」さえ出来ればLPガスは不要

要は何かしらで約40℃の温水を作る仕組みさえ確保すればいいのだ。
シャワーさせる仕組み?簡単だよ、アウトドア用フットポンプ加圧式の
シャワー一式がホームセンターで1500円くらいで売っているじゃん。
コレを使えばいいんだよ。

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さあ、エネルギー源を探そう、それはあまりにあっけなく見つかった。
誰もが無料で使い放題、しかも莫大な熱量を誇るモノ・・・それは太陽だ。

そうなれば話は早い、会社のゴミ捨て場で中身の綺麗な廃棄一斗缶を拾い
バイクのマフラー用に持ってたツヤ消し黒の缶スプレーで全面塗りつぶし、
ホームセンターで安売りしていた車のフロントガラスの内側に置く銀色の
サンシェードを買ってきて、庭に太陽に向けて弧を描くように設置して、
その中央に水を張ったさっきの黒塗り一斗缶を置き、そのまま放置した。
ちゃんと缶の底にも日が当たるように磨いたアルミ板も忘れずに置く。

たったこれだけで、夏の天気の良い日には三時間弱で水温が50℃を
軽く超えて水道水で希釈しないとヤケドするほどの温度になった。
この太陽の恵みをフットポンプシャワーのタンクに移して足踏みポンプで
加圧してシャワーを浴びた。頭も洗い、全身も洗い、最後に洗い流す。

一通り使ったら20Lの温水が半分ほど余っていた。つまり暑い季節なら
温水が10Lあれば汗を流して垢も落してサッパリと出来るのだ。
丸刈り頭の中年男ゆえにコレだけの湯量で済んだと思われるが、
普通の人や髪の長い女性が同じ事をするなら最低でも20Lは必要だろう。

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この通り太陽熱貧乏シャワーは大成功!休日は布団と洗濯物を干しながら、
バイクを弄りながら勝手に湯が作れてしまう、これでOKだ。
でも平日はどうしようか?会社帰りは暗くなった頃だ、日中に太陽熱を
たっぷりと吸熱させた一斗缶も回収出来なければ意味が無いじゃん。

早速実験だ。朝、出社前に一斗缶を前述のようにsetして、日中加熱された
一斗缶をそのまま帰宅するまで放置、そして夜に回収し水温を計ってみたら
まだ37℃もあった。大汗かいて帰宅してぬるめのシャワーで汗を流すのに
ちょうどいい温度、つまり気温が高ければ日没後も簡単には冷えないのだ。

だが残暑の季節が過ぎて秋に入ると、放置した一斗缶が冷えるようになり、
帰宅したときには水道水よりも冷たくなっている事が当たり前になる。
こうなると無料の太陽エネルギーに頼れない。じゃあどうする?考えろ!

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・・・要はどんな手段であっても40℃のお湯が出来ればいいんだ。
水道水の水温は15℃くらいだから100℃の熱湯を作って希釈すればいい。
100℃の熱湯?、つまりヤカンで熱湯を沸かせばいいんじゃん。
こうして、カセットコンロとヤカンを使う貧乏シャワーが編み出された(^^;)

具体的には20Lポリタンクに半分水道水を入れておき、ヤカンで湯を沸かす。
手持ちのヤカンは約2Lの容量、それで熱湯を作る。沸いたらポリタンクに移す
ポリタンク表面から放熱しないようにキャンプ用の発泡断熱銀マットを
ポリタンクの周囲に巻きつけて熱湯を注ぎ終わったらその上にバスタオルを
置き、極力放熱を防ぐのを忘れてはいけない。

無料の太陽と違ってこの熱は金がかかっているのだ、無駄使いは罪だ。

湯を沸かすヤカンの周りには水を入れたアルミ製の500mlボトル缶を並べて
少しの熱も余すことなく回収して予熱しておき、次回に沸かす時はその少し
温まった水をヤカンに移して沸かすことで沸騰までの時間短縮とポリタンク
から放熱してゆく熱量を最小限に抑える工夫も取り入れた。

oyu

3回ほどヤカンで熱湯を作ってそれをポリタンクに移せば、大体40℃チョイの
16Lほどのお湯が出来ている。寒くなると身体を温めるために沢山の湯を
浴びるため、夏場なら10Lで足りた湯が最低でもコレくらいは必要だ。

先ほど同様、もし普通の人や髪の長い女性がコレをするのなら、その倍の
ポリタンク2個分、つまり40Lはお湯を用意したほうがいいだろう。

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シャワーの熱源にカセットコンロを使い始めるとさすがに消費量は増えた。
だがそれでも一週間に1.5本くらいで済んだ。つまりこのように少し頑張れば
日々の調理と平均で二日に一度シャワーを浴びるための光熱費というのは
実はカセットコンロボンベ4〜6本分、一ヶ月で500円もあれば足りるのだ。

これがこの一年間、サラリーマンとして健康で文化的な生活をしながら
削りに削りまくって、もうこれ以上は削れないと判った最低限のガス代。
つまり、LPガス屋と契約して普通に調理して風呂も心置きなく使った時の
一ヶ月分の料金が6000円だとすればそれでカセットコンロボンベを買えば
一年分のガスが賄えてしまう事になる。

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太陽熱&ヤカンを使ったアウトドア用フットポンプシャワーというのは
このように日常生活で使う事はまず無い、と言うより日常でこんなことを
やるバカは自分くらいじゃないだろうか(苦笑)

でもこれはアウトドアで水遊びして帰るときに温水でシャワーを浴びたい、
とか、大地震等の災害で日常のインフラが使えない時に温水を作りたい、
シャワーを浴びたい、髪を洗いたい、という場合には有効な方法だろう。

この文章を見た人に対して同じ事をやってみろ、お勧め、とかは言わない。
だがこんな方法で生活する方法もある、という事は覚えといて損は無いゼ。

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本当にカネが無ければこれだけで一年過ごす事も可能だが、自分は別に
カネに困ってこの生活をしている訳ではないので、日常は貧乏シャワー、
たまにあちこちの銭湯を巡って手足を伸ばせる大きな湯船に浸かり、
隅々まで身体を洗い、サウナなんかに入ったりもしてして、
心身ともにリラックスする事を欠かさない。

銭湯については思う所があるのでまた後日改めて書こう。

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このように日常レベルを意図して下げて、その反動でたまに贅沢をすると、
ライフコストも削れるし、些細な事なのに贅沢を満喫出来て一石二鳥♪

これは日常の生活レベルを一定に保持し続ける中流で安定な生活では
絶対に見る事も体験する事も出来ない世界だと思うのだ。
逆に無理して体験する必要が無い世界でもあるんだけど(^^;)

でもこういった低レベルな日常生活を経験した者は(ホームレス経験者や
アウトドア経験者も)いつ大災害が起きて生活インフラが断たれても
少しも慌てず騒がずいつもと変わらぬ生活が出来る。

ぶっちゃけた話、場所にもよるが俺は最低ナイフ一丁とロープ一束あれば、
家や電気やガスや水道が無くても、雨露凌げる拠点を作って、火を起こし、
雨水溜めたり河川の水を浄化して飲み水を作り、食える野草や木の実や
魚や動物を採って食って、しばらくの間は生き延びる自信が有るもんなぁ。

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2004.06.07

街乗りライダーこそサーキットを走ろう

「趣味はバイクや車」、と言ってもそれ自体に欲情するメカフェチとは違う。

ゴルフが趣味というオジサンがゴルフクラブが趣味、とは言わないように、
「バイクや車を使って遊ぶ」これが本当の趣味。乗物はそのための
道具に過ぎない。

自分の場合、バイクに乗って遊ぶのが第一、エンジニアの端くれとして
機械弄りの対象として弄るのが第二、自分を変身させてくれる一種の
「衣装」としての愛着が、第三、そして戦闘機や兵器にも似た、走るために
生まれた研ぎ澄まされた意匠が第四、・・・・うーん、結局カッコイイその
デザインに欲情してるのかも<ばき

でも、あくまでもその主目的は「遊ぶ」事だ。その遊びの例をいくつか
挙げると、オフローダーで河原で飛んだり跳ねたり、ビッグバイクで
高速道路を一気に走って地方を旅したり、セパレートハンドルのバイクで
峠道を走ったりする事かな?その全てがすげぇ楽しい(^^)♪

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そういった目的を果たす道具としてそれに最適なモノを探し用途が
ダブらないように集めたら・・・結果8台ものバイクになってしまった
、というわけだ(苦笑)

余談だが結婚生活時はあと2台持っていたし元カミさんもバイクを
2台持っていたから実に合計12台ものバイクが当時住んでいた一戸
建ての庭に並び、近所や大家からバイク屋と間違えられた。これ、
嘘じゃない、実話だ(^^;)

一人暮らしに戻ってからは10台も持っている意味が無くなり少し
整理した。今あるバイクは次の通り。これらは全てナンバーを取得、
公道を走れる状態だ。

ヤマハ TDM850     97年式 黄銀黒 UK逆輸入車
ヤマハ XT600Z-TENERE  83年式 白赤  国内仕様、300台限定
ヤマハ SRX600     90年式 黒   セル付、改造多数
ヤマハ TY250ZS     95年式 白紫  ナンバー付きトライアル車
ヤマハ TZR250RS    92年式 白赤黄 1000台限定モデル
ヤマハ TW200      87年式 白青  最初期、完全ノーマル
ヤマハ BW'S100     00年式 青白  台湾ヤマハ製、輸入車
ホンダ CRM80      88年式 赤   最初期モデル、完全ノーマル

あとナンバーが無いのと用途が限定されるためここに挙げてないが
お子様モトクロッサーのホンダQR50もオモチャとして持っている(^^;)

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この通り、ヤマハのバイクが好きだ。またデザインも一癖あるものが
好きで、エンジンも2気筒、単気筒、2stとヒトクセのあるキャラクターが
大好きで、大きいのから小さいのまで、つまりゴルフクラブにおける
ドライバーからパターまでを熟考した上で取り揃えている(つもり)。

脱線するが、バイクを沢山持っていると言うと、じゃあ浮気性でしょ?
と言われる事がある。一台で満足出来ないから次々と…って事は
女もそうなんでしょ?と。

それは違う。バイクというジャンルが恋人、女房なのだ、十代の頃に
惚れてからずっと一途に思い続けて、今もその思いに揺らぎは無い。
そしてこのバイク達はその「女房」と自分との言わば子供、実際の
子供と同じで一人より二人、二人より沢山いるほうがカネはかかるが
毎日の生活が楽しいに決まってるじゃん(^^)

それに、色々なキャラクターのバイクに乗ることで、自分自身の変身
願望と言うか、一人でゴレンジャーを気取れるというか、乗るバイクに
よって自分の能力が変わる、つまりレインボーマンのように
色々な能力を足した、違う自分になれる
、という少年時代の夢も
叶えているわけだ(笑)

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先週の土曜日、仲間内でミニサーキットを一日借り切る走行会があり
参加した。今までその走行会にはSRX600改を持ち込んでいたのだが
今回は違う。最近入手したばかりのオンロードレーサーレプリカ、
TZR250RSを使う事にした。

そのTZR250RS(3XV8)は12年前に作られた峠小僧ご用達なマシンと
言うのに、なんと今に至るまで無事故無転倒!、ある意味で奇跡の
コンディションの個体だ。そんな訳で転倒の危険性があるコース走行会
で綺麗なカウルをギタギタにするのが忍びなく、ボロ外装をヤフオクで
落札しそれに交換した。それ以外はタンデムステップやウィンカーや
ランプ類、ミラーなどの保安部品を外し、スピードメーターを殺し、180km
で作動する速度リミッターも解除、最後にカウルゼッケン部に適当な
数字シール張って、ハイ、これで立派なサンデーレーサーの完成♪

それ以外は大枚をはたいて前後足回りをバイク屋でフルレストア済み。
エンジンは完全ノーマル、チャンバーもノーマルだから馬力は公道走行
時と同じ。タイヤは入手した時から付いている何年前のか分からない
ツーリングラジアル、フロントは亀裂すら入っている。公道走行用でも
もう交換したほうがいい状態だ。ましてサーキットを走るタイヤじゃない。

・・・でもそれでいい、走行会は闘って勝つことが目的の「レース」じゃない。
路面とバイクと自分との対話、そして攻める自分と自制する自分との
内面の心理戦なのだ。だから足回りのセッティングも、過剰な馬力も、
レースで勝てるタイヤも要らない。

入手したてのマシンを「調教」する前にはその「素性」を確かめるのが
一番大切、それが分からずに弄ったり闇雲にパーツをゴテゴテつけても
カネと労力の無駄だ。それに自分の股関節痛もまだ完治してないので、
身体をバイクに慣らすのも大事な目的だ。

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完成したサンデーレーサー仕様のTZRを自分のトランポたるアトレーに
積み込む。ついでにパドックの足としてQR50も積んでゆく。軽1BOX車は
舐めてはいけない、このアトレー(S120V)、旧規格ゆえ幅は狭いが荷物
室が長いのでバイクが積めるのだ。

スクーターや80ccのミニモトは当然積み込めるし、250ccのフルサイズの
OFF車やトライアル車だってちょっと工夫すれば積める。走行会仕様にした
SRX600とAR80を二台同時に積みサーキットに行った事もある。

たった660ccとはいえ5MTでキビキビ走る。しかも自主規制一杯の64PSを
誇るインタークーラーターボだ、バイクを2台とその他も積み、さらに大人が
二人が乗っても高速道路で120?140km/Hでクルージングが出来るほど
パワフル!、荷物を降ろせば荷室で大人二人が余裕で寝れるからキャンプ
などにも最適!、遊ぶという用途でコレほど使える車は無い。

もし事故ったら運転席がつぶれて身を持って荷物を守ったり、積んだ
バイクに自分が轢かれるハメになる事は間違いないだろうが(苦笑)

軽1BOX賛歌はいずれ別の日に改めて書こう、魅力一杯だからね(^^)

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途中で友人を拾い、茨城の外れにあるトミンサーキットという教習所に
併設されたカートコースのような所に行く。集合したバイク仲間はニ十数名、
これを自己申告で4つのクラスに分けて、一回20分*4set走るのだ。

追い越しは厳禁、ただし速度差がある場合はコース脇のオフィシャルが
前走車に「抜かせろ」サインを出す仕組みだ。

自分の走るクラスの出走前に、教習所にある様な8の字コースでTZRを
走らせてみた。バンク角は深いがタイヤが古いためか硬い。本番では
無理は出来そうにないな。

ついにコース走行の時は来た。マーシャルが先導し、数周走り、コースに
慣れるまでゆっくり走る。その後マーシャルがコースを出て、そこから
各自が各々のペースで走る。走り続けると速い人、遅い人が段々分離
して、追い越しさせろ、の指示が頻繁に出る。

初めてコースを走るTZRは、公道で走っている時と違い、水を得た魚の
ように気持ちよくバンキングして曲がり、2ストサウンドを吐きながら素早く
立ち上がる。タイヤが劣化してるので立ち上がりでアクセルをワイド
オープンにするとリヤがズルズル滑る。

段々、この車体のクセが分かってきた。そして今のタイヤの限界点も。
その状態のまま、段々ペースを上げて行く、自分より上手い人が前を
走っているのでその人のライン取りと、ブレーキングポイントを参考に
追うが結局追いつけなかった。

集中して走っていると20分はあっという間に終わる。その次のクラスに
走る友人にTZRを託し、自分はアトレーで作った快適ピットで涼みながら
今の走りを考える。そのイメージを持って、次の走行時に色々試して
さらにペースアップを試みる。

そのうちバンクセンサーをがりがり擦るようになり、タイヤが持たずに
滑り始めてペースアップの限界を感じたのであとは淡々と流した。
で、この日は一度も転倒もせず無事終了。

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コース走行というのは。レースの為の練習でもあるけれど、実はそれ
だけじゃない。公道では不可能な自分やバイクの限界に近い走りを
試せる事で、バイクを操る基本技術の練習が出来る、それにより公道
走行時の危険回避能力を養う事が出来るのだ。

ここで限界走行を練習したからといって、決して公道でレースまがいの
無謀運転をするためではないのだ。

コーナーに入る前に速度を落しきれるか、どんな速度ならコーナーに
進入出来るか、コーナーリング中の速度やバンク角はどこまで攻めたら
バイクは転倒するのか、ラインはどう走ればいいのか、その時タイヤが
スリップしたらどうすれば良いのか、

そんな限界を試せる訓練は公道では無理だ、法に触れるしヘタすれば
死んでしまう。だがそういった現状把握により自分の限界を知るのは
自分の能力を過信しない為にもの凄く重要な事だ。

こういった練習が出来るのはサーキット走行会やジムカーナ、安全
講習会、他にはオフロード走行など限られたシチュエーションしかない。
峠は絶対に、それとは違う。勘違いしないように>All rider

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バイクは新聞配達のような実用用途でも、練習して上手くなるという
「スポーツ」の要素がある乗物だ。車の運転も確かにそうだが単車は
常に一瞬の判断ミスで転倒、そして最悪の危険性を秘めた真剣での
打ち合いのようなもの。対し車は完全防備して竹刀で打ち合っている
ような、バイクに比べれば数段緊迫感と真剣味に欠ける乗物だと思う。

この「上手」「下手」、というのは「速く走れる」「遅くしか走れない」、
とは違う。その乗り物の能力、今の自分の能力、これから走る道路の
状態、時には天候さえも瞬時に把握して、その中で無事に走りきる、
極めて高度な能力の「上手」「下手」だ。

しかも「下手」なライダーは交通戦争の中で淘汰される危険性もある。
#どんなに「上手」でも、避けられない事故もあるんだけど…ね。

多くのライダーは経験を重ねる事でこの能力を徐々に身に着けてゆく。
だが経験以上に積極的に練習を重ねる事で、この能力はより高める事が
出来る。サーキット走行や安全講習会、オフロード走行は、そんな公道
という戦場をより長く安全に生き残るためのノウハウを自分なりに訓練
出来る良い機会だと思うのだ。

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もしバイク乗りで今までにこういった走行会や練習会に参加した事が
無かったら、是非チャンスを見つけ参加してみよう。バイクを操る楽しさを
実感出来る事は勿論、練習して上手くなるという「スポーツする喜び」を
感じる事が出来るだろう

スポーツ走行ってのは本当に身体も使うから筋肉痛になることウケアイ(^^;)


 

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2004.06.02

貧乏はなるものではなく楽しむもの

…などと書くと本当に貧乏な方からは怒られそうだが、それが本質だろう。

でも「貧乏」はどういう定義で規定されるのか実にあいまいな言葉だ。
逆に誰でも宣言さえすれば「貧乏」という肩書きを手に入れられる。
つまり「自分は貧乏だ」と思った瞬間に、その人は「貧乏」って事だ。

理由もバラバラ。コンビニが捨てた賞味期限切れのゴミを漁る人もいるし
最近流行りの薄型TVやDVDレコーダーが今すぐ買えないから、と言う人も
いるだろう。つまり、自分の理想とする生活から乖離した生活を送らねば
ならない理由が経済的な事情である場合に「貧乏」という表現を使っている。
(この事情が経済的欠乏ではなく心理的充足欠乏の場合は「不幸」という)

これはある意味で、気の持ち様でどうにでもなる、という事でもある。
貧乏を脱したいと思ったら、「自分は貧乏じゃない」と思えばそれで終わり。
つまり「貧乏」という言葉を何らかのネガティブな意味合いで使ってるのなら、
ポジティブシンキングで一発で解決できてしまう。

なぜなら、今の日本で「本当に貧乏」な人は多くないからだ。

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日本で生活保護を受ける人間の一ヶ月の支給額は十数万円だと聞いた。
自分の実体験に基き断言するが今の日本で人一人が健康で文化的に
生きる為には毎月10万円もあれば古くても清潔な住まいを借りて、太る
ほどに腹一杯食えて、その上で貯金だって出来る。

もし、それらが出来ないからウチは貧乏だ、と言う奴がいたら
それは「貧乏」じゃない。「現実を直視しない単なる愚か者」だ。

収入が30万円で暮らしていた人間が事情で10万円しか収入が得られ
なければ、10万円で暮らせる生活をすればいい、これで全てが解決。
それなのに30万の収入で暮らしていた時と同じ生活をしようとして、
でもそれが出来ないから貧乏だと言うのは根本が間違っている。
無論いつも10万で暮らしている奴が30万の暮らしを羨んで自分自身を
「貧乏人」と卑下するのもおかしな話だ。

30万円の暮らしには30万円なりの生き方がある。
10万円の暮らしには10万円なりの生き方がある。

こんな簡単な事が理解も実行も出来ないから収入が低くなり苦しいと
言いつつ、今までの家に住み続け、燃費の悪い大きい車のローンを払い、
外食とか海外旅行とかもしたい、と矛盾極まりない行動しながら愚痴が
出てくるのだ。

自分の収入に対して見合った以下の暮らしをしていれば裕福だし、
自分の収入に対して見合った以上の暮らしをしていれば貧乏なんだ。

たしかに、生活している場所によってコレ以下はどんなに生活レベルを
下げても暮らせないという限界点はある。例えばホームレスの人達は
空き缶拾いなどで月収1〜3万という話を何かで見聞きしたことが有る。
でもそれでも彼らは生きている。限界点とはそれ以下だともう食えない、
ここまで落ちたらもう回復できない、つまりあとは飢えて死ぬしかない、
という下限値、それを下回ってから飢えて死ぬまでの時間、その状況が
本当の意味での「貧乏」だと思うのだ。

幸か不幸か、自分は現代の日本で生まれ育ち、その下限値を体験した
事が無いから、その悲惨さが分からないが、でも「お前は毎月1万円の
収入で生きていけるか?」と問われたら即座にこう答えられる。

 ino :「飢え死にだけはしないで生きてみせてやるよ」

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だが現代用語の「貧乏」が意味するものはそれと違いかなり軽い意味だ。
仕方なく(または自ら率先して)何れかの理由でカネを使えずに(使わずに)
暮らす事だと認識している。つまり、もう絶対に浮上できない、死ぬ寸前、
ではなく、継続しうる生活レベルだ、って事だ。

だからこそ、これを悲観するようなネガティブシンキングじゃダメだ。
自分に課せられたシチュエーションを、生きる為のレギュレーションとして
その枠内で如何に楽しく生きれるかに挑戦して楽しまなきゃ損なのだ(^^)。

これは生活を掛けた真剣勝負、こんな高度に知的で、実益を生み出し、
自分の生き様をこれほどまでに表現できる「ゲーム」は他にめったに無い。

バカいうな、ゲームなんかじゃない、ふざけるな!という人もいると思う。
養うべき家族がいる、払わなければいけない住宅ローンがある、とかね。
…でもそういう人はやっぱりまだ全然現状把握をしきれていないよ。

本当に苦しかったら家財を手放し、狭いボロアパートにでも引越して、
車を手放して自転車に買い換え、夫は終業後に深夜までバイトして、
妻はフルタイムで働き、子供は公立校、そして義務教育終了後は
高校に行かず、一家総出でその生活費を稼げよ。

それをしなくても生活できるのなら、まだ本当に苦しんでなんていないよ。

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実際,自分の周りにも一見すると貧乏暮らしをしている人たちは多い。
だがそれは単に裕福そうな暮らしをしていない、というだけであって、
飢えて死にそうなまでになっているわけじゃない。逆に裕福そうな
暮らしをしていても実は借金の塊のような人だっている。

つまり、生活して、食っていけて、生きていけるなら「貧乏」じゃない。
低収入にトントンで見合った暮らしをしている人は決して「貧しく」ない。
逆に無計画に借金やローンを組み、必死に背伸びしながら実力以上の
ハリボテを作りそれをどうにかして保とうとしている人は外観はどうあれ、
間違いなく「貧しい」と思うのだ。

おっと、ちゃんと自分の実力と未来を計算して、借金出来て、それを
完済できる人は、それとは違うよ、「貧乏」という知的ゲームを上回る
リスキーで高度なゲームのプレイヤーにして、勝者だ。

結局のところ、見た目では貧乏か裕福か、幸せなのか不幸せなのか
なんて分からない。サイフに金があっても、心が貧しい人があまりに
多いからね、今の日本は。

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今の自分は俗に言う「貧乏生活」をしているが、これは本来やる
必要の無い「貧乏」だ。だって専業主婦と子供二人くらいと住宅
ローンを払って暮らせる位の収入が独り暮らしなのにあるからね。

だけど自分はそういう暮らしを目指していながら途中でそれを失い
暗中模索の結果、それまでに無い新しい生き方、「真の豊かな
暮らし」を求める過程で流れ着いた生き方としての「貧乏」を、
試して、楽しんでいるだけに過ぎないのだ。

でも、やってみたからこそ思う。貧乏は卑下することじゃない。
逆に誇ってもいいくらいだ。

最近知った「貧乏真髄」の著者のHPを見ると面白い。

彼の日々の生活は自分と似たような思想で行われておりその
生き様が面白い。その彼の月収は大体8万円らしい。その*倍の
給料を得ている自分は彼と比べてその倍数だけ豊かだとはとても
言えない。明らかに彼の方が豊かに生きている。実生活も、心もね。

まだまだ修行がたりない。貧乏道は底無しのように奥が深いのだ。

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・・などと分かったような事を言いながら自分は以前の自分の立場と、
最近の自分の立場の落差が自分の中でまだ完全に認め切れない。
だから、今の自分を過去のと比べてしまい、「ああ俺は不幸だ」と思う
事がある。

でもこれは上記のような「貧乏」「裕福」を「不幸」幸福」と置き換えて
同じ発想で考えれば大きな間違いだと気が付くのだ。

独身者には独身者の、夫婦者には夫婦者の、家族持ちには家族
持ちの、そして中年バツイチ男には中年バツイチ男なりの、つまり
俺には俺なりの、…ふさわしい生き方が、充実感が得られるだろう
生き方が、きっとあるはずだ。

貧乏生活とそれによって得られる心の豊かさ、生活技能の向上には
そのためのヒントがあるような気がして、仕方ないのだ。

 

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