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2004.06.16

幸せは自由を失って掴むもの

自分もその一組なんで大きな声では言えないが、最近離婚が多いらしい。

来る2007年には離婚夫婦でも厚生年金分割が行われるようになるから、
瞬間最大風速でどっと増えるのではないだろうか?

夫婦で仲良く二人分の年金を使っていっしょに楽しく暮らせたほうが、
いがみ合ってその結果少ない年金を等分に割り、それで別々に暮らすより
絶対いいと思うんだけどな(苦笑)

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想いがとっくに涸れ果てて情すら無くなっていても、経済的な面だけで
繋がっている夫婦ってのはこの世の中に少なくないと思う。
伴侶が友人知人以下の単なる同居人程度の存在に成り果てていたり、
日常会話すら殆どない家庭内別居状態なんてのは悲しい状態だよね・・・

それは不毛だ、自分を解き放て、と言う声も理解できる。確かに辛いから。
でもそれがカネでも「絆」の一つだから、全て断ち切った自分からすれば
最後にそれしか残っていない夫婦でもちょっとだけ羨ましいカモ(苦笑)

なかなか治らぬ酷い水虫に悩む人が、その痒みについに耐えかねて、
もうイヤだ!と足を切断してしまう、これで永久に痒みから開放される!
でも痒みから開放されて冷静になって後から考えると、いくら痒くても
やっぱり足はあったほうが無いより遥かに良かったと後になって思う…
もう痒くはないから、楽ではあるけど代償は大きい、そんな感じかな。

病巣が水虫でなく壊死して腐敗し始めてたら、もう切断するしかないけど。

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夫婦の「絆」を当の本人がどう考えているのかまず考えないといけない。

 A)それはどんな嵐が来ても流されない生活や心の安定を生む「錨」か
 B)それとも出たくて仕方ない牢獄に自分を縛り付けている「足枷」か

AもBも同じ「何かを繋ぎ止めている」物だけどその意味する事は正反対。

でも考え様によっては「錨」は船が自由に航海出来ない「足枷」そのもの、
「足枷」は牢獄であっても嵐をしのいで飢え死にしない安定した暮らしを
一生約束されている、実は自分を守っている場所なのかもしれない。

このように見方や捉え方により違って見えるそれは、実は全く同じ物。
それが「絆」ってもんだ。

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要するに夫婦っていう関係は「ラブラブ」でも「枯れ果て」ても関係なく
必ず互いの「個人の自由」を束縛し合う事で成り立っていると言える。

でもその結果、一人では到底到達する事の出来ない遥か高い所に辿り着く
「強さ」と「幸せになる権利」を得る事が出来る。実際「幸せ」になれるかは
そこからの努力次第だが、その貴重な「権利」は「個人の自由」の犠牲の
上に、当然全部ではなくある程度だが、成り立っている、これがポイントだ。

植物に例えれば一本の蔓草は添え木や他の木がないと自立は困難だけど
横に伸びる方向は自由自在。それに対し二本の(又はそれ以上の)蔓草は
互いが絡みつく事で互いを支え合い、添え木なしでも自立して上へ上へ
成長して行くが、互いが絡み付くことで自由度を失う、そんなイメージだ。

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夫婦となることで失ってしまう個人の自由より、それによって得られる
精神的充足感や幸福感は一人では絶対に成しえない、より高次元の世界だ。
だからこそ人間は結婚して子を成し、原始から脈々と繁栄してきたのだ。
つまり人間が生きるこの世の中には、以下の大原則が常に成立している。

 「個人の自由」<<<「家族である幸せ」

乱暴に要約すれば、男と女が夫婦という一単位として暮らす結婚生活とは
互いが互いの為に自由を失う、正確には双方で奪い合う事で生じる犠牲を
互いに許し合える愛情と、そこを基点として今までと違う新しい幸せを
二人で共に目指していける信頼関係があって初めて成立するもの、だろう。

つまりそのどれか一つでも欠けたら、夫婦は夫婦ではいられなくなる。
愛していても許せない、とか、二人で目指す所がバラバラ、とかね。

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で、最近の離婚増加という社会現象を当事者でなく客観的に考えると、
今の世間は「個人の自由」ってのを超過大評価しているように思うのだ。
尊重されるべき基本的人権と、個人の自由を実に都合よく混同している。

自立した個人の自由ってのは確かに尊重されてもいい、それは認めよう。
確かに他人に強制的に自由を奪われたらたまったもんじゃない。だけど、
それは人権のように「何人タリトモ侵スベカラズ」なモノとは違うんだ。

親や兄弟、愛する伴侶や自分の子供、己が信じる宗教や大切な物の為なら
つまり『本人が納得すれば』捨ててしまっても全然かまわない物なんだよ。

その本人が納得してる価値観と違う価値観を押し付けお前は間違っている!
と声高に批判したり思想を無理に変えようとしたら、それは人権侵害だ。

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残念ながら今の世情は良く言えば自由万歳!実は総無責任社会と化して、
最近は「自由」を「権利」と履き違えた連中が余りにも増えている。

「権利」ってのは「責任を果たす義務」が必ずセットで付いてくるものだ。
そして「責任」は「自由を制限されて」背負うもの…つまりこんな感じ。

 「自由になる」≒「責任は無い」≒「義務から開放」≒「権利は放棄」
 「権利を得る」≒「義務を果たす」≒「責任を負う」≒「自由は制限」

こうやってよくよく見ればこの二つが同じである訳がないだろ(苦笑)

「個人の自由」が何よりも一番大事で、そのためなら何をしても許される、
だから一度つけたケジメを蔑ろにして、夫婦で交わした有言、暗黙の約束、
人として、夫婦の相方として最低限のルールを良心の呵責無く平気で破り、
結果、無償の愛や全幅の信頼という人間同士が築ける一番美しくて儚くて、
強そうだけど実に脆いその関係をゆっくり、又は一発で壊してしまうのだ。

夫婦間では「俺は、俺は」「私は、私は」と個人の都合や利益だけを求め
主張せずに、個人としての人格をお互い尊重しつつも、常にどこかで
お互いが相手に譲歩した形で、「俺達は」、「私達は」と、二人で一つの
共生関係である事を互いに理解してる事が必要。←ここ試験に出るぞ(笑)
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現実はこんな単純に割り切れたり、簡単に相互理解は出来たりしないけど。

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過去は自分の土台に過ぎず、重要なのはその上にこれから何を築くかだ。
現在や未来を見据えて、そのために自分が今から何をすべきかを考えて、
過去に謳歌した「自由」を捨てて代りにその為の「責任を背負う」のだ。

「責任」っては重いし背負うのは辛いけど、それにより「幸せになる権利」
を得る事が出来る。これは努力さえすれば必ず花開き実が成る…はずだが、
それを一度得たはずの自分は、己の力量及ばず結局それを失ってしまった。

確かに一瞬は「足枷」を外した開放感もあった!だけどそう思ったモノは
先ほど延べたように「絆」だった訳で、結局自分に残ったのは虚無感だけ。
先日書いた様にこの意思決定は後悔していないが、「残念」だったと思う。

その後は「錨」を嵐の最中に切り離して、なされるがまま波風に翻弄され
結果流され辿りついたのは、広大で掴み所の無い「自由」という大海原。

最初は何をどうして良いのかサッパリ見出せず、ただボーっと過ごし、
次に相方というオールを失ってるのに自分のオールだけを漕ぎ始めた。
力いっぱい漕げば、もしかしたら先に進めるんじゃないかと思ったのだ。

でも片方のオールだけ漕いでも同じ所でくるくる回っているだけだった。

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それでも誰も困らなかった、なにせ今の自分には背負う物が無いからね。
自由ってのはつまりそういう事、足踏みしても後退しても止まってもOK。
でも一年間くるくる回り続けてこの立場での自由は十分に満喫できた、
と言うより飽きた、いや、嫌になった、と言った方がいいのかな(^^;)

今は「このために俺は生きている!だからバリバリ働くぞ!うぉりゃ!」
という以前有ったけど、今は無い、単純明快な「生きがい」が欲しい。
一生独身を決めたOLが自分の今後の拠り所と生きがいを求めて駅前の
マンションをローンで買う気持ちが、今の自分なら理解出来る気がする。

俺も一時あこがれた「家付きのガレージ」を思い切って建ててみようか。
幸か不幸か、一戸建てを買ってローンを払い続ける位の稼ぎはあるしな。

1Fはシャッター付フルガレージ、車3台+バイク10台+作業スペース。
そこにトランポとセダンとライトウェイトスポーツカーを収めるのだ。
バイクも全部屋内保管、一通りの整備が出来る工具類も揃えたい♪
2Fは2LDKマンションのような普通の間取りの住居+倉庫になっていて
その上にはフラットな屋上があって、そこで雨水や太陽で遊べたりして、
さらに庭もあって好き放題に野菜を植えられる、そういう住処が欲しい。

家族は無くてもそんな住処で猫と一緒に暮らせば、まあまあ幸せだろう。

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そういう明確な人生の目標を立てて、それに常に目を向けて走らないと、
しかも自分の人生という道を走る=生きる時は、常に何かの責任感という
トラクションをその道にかけないと上手く走れない=上手く生きられない。

人生無責任モード、つまりエンジンをブンブン回し闇雲に馬力を誇っても
責任感という適度な荷重でタイヤを路面に押し付けていなければ
ホイルスピンするだけでちっとも前に進まない、ただ消耗するだけだ。

責任ってのは重過ぎたら走れないし、車軸が折れて自滅するだけだけど
それが全然無いと、どこへ吹っ飛ぶか分からなくなってしまう(笑)

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今までの自分はそれ以前の無負荷な状態。つまりクラッチが切れてた。

エンジンから発した馬力が車輪にすら伝達されず、ただ以前の勢いで
惰性でまだ動いている、というだけだった。こんな状態を続けたら、
燃料とエンジンを消耗するだけですぐリタイヤする羽目になっちまう。

ポンコツだけど、まだエンジンは回る(仕事は出来る)、燃料(寿命)も
多分半分くらいは残っているはず。今の自分に必要なのはそこから発する
馬力を使って未来へ前進するために、まずは切れてるクラッチを繋ぐ事!
・・・たったそれだけの事を把握するのに一年も掛かってしまった(自爆)

そして空転するホイルを押さえ込み人生というコースをしっかりグリップし
制御して走るための適度なダウンフォース、つまり何らかの責任という、
人生への荷重不足に気が付いた。

…この例え話はモータースポーツ好きの人でないと判らないな(^◇^;)

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まあ家を建てるってのは一生に一度の事だからまだ夢の域を出てないけど
これから有り余る自由を少しずつ引換えて義務と責任を背負って行く予定。
結婚し一度手にして、離婚し失ったそれとは、全然形の違う物になるけど、
義務と責任は背負った分だけ「幸せになる権利」が得られる…からね(^^)

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ちなみにここまで書いてきて何だが、こんな風に何となく判ったような事を
書いている俺がそもそも結婚に失敗したバツイチ野郎だから(自爆)
ラブラブな夫婦や未婚な人々から見たら実に説得力に欠けるだろうけど、
これらは結婚生活という戦場で戦い、力尽き敗れた人生経験に基いた、
今の自分なりの持論なんよ。


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