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2004.06.23

命という「襷」

「人間の三大本能は、睡眠欲、食欲、物欲である」

                            by アリストテレス

・・・当然うそだ<ばき

実はこれは今の自分の持論だ。だが、あながち間違っていないとも思う。
人間は葦は葦でも考える葦だ。そう、我思う故に我在る、なのだ。
つまり知性があるから人間なのであって、知性無き他の生物と人間との
生き様に一番大きな違いがここにある。

でも人間以外の生物、例えばのそのそと歩く大きな亀を見ていると、
いつも無言でいるこいつには哲学があるなぁ、と思ったりもするが(^^;)

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世間一般で言う三大本能は「睡眠欲」、「食欲」、「性欲」、だと言う。
「生物」の三大本能は確かにそうだろう。そうやって個体は生き長らえ
子孫を残して、繁栄してゆくのだ。

だが生物だけど「人間」として生まれて育ち、そして老いて思うのは
三大本能と言われる割に性欲ってのは若い一時期だけ特に旺盛で(^^;)
その時期が過ぎ、老化が進行すると段々どうでも良くなってしまう、
そういうもんだと思うのだ、実に残念ながらね。

ぶっちゃけ、自分の人生を省みると、女運が極めて悪い星の下に生まれた
ためもあるだろうが世間一般の男の平均と比べたらろくに遊ばなかったから
性欲を人並外れて満たせないまま年老いてしまったような気がする(自爆)
今から思えば非常に残念ではあるが、もう過ぎた事だ、仕方ないわな。

それでも、一度はこいつのために自分の未来をすべて捧げてもいい、と
思えるほど惚れた女に出会えて、その決心を持って結婚し、短い間では
あったけど自分の家族の未来を夢見れて、幸せだなと思える時間を
過ごせたのだから、そういう思いをした事が無い男よりは「雄」としては
遥かに劣るけど、「男」としては幸せな人生だったと思う。

そんな風に思うのが俺だけでなかったら、今も幸せだった…かもね。

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人は本来はそんな時期に衝動的な本能をもって子を成し、そして育てる。
そこには頭でっかちな理屈も、ゼニカネの損得を弾く打算も無いはずだ。

育て終わった親は子に「襷」を託し、そこで生物としては役目を終える。
その後も生き続けるが、すでにDNA存続という本能(呪縛)から開放される。

「襷」を託された子は親が行ったように、成長し、競争し、結果生きて、
同じように本能に従い子を成し、育て、「襷」をさらに次に繋いで行く。
つまり今生きているすべての命は、何十億年も前から一度も絶える事無く
「襷」が繋がれた結果、ここにあるのだ。

そういう生物としての為さねばならない仕事、「命を襷渡しする」事は
心底望んではいたが残念ながら自分には許されなかった。

過去から脈々と受け継がれた我が「襷」は繋がれる事無く自分で終わる。
これは別に悪い事じゃない。今を生きている環境で生き残れない遺伝子は
言ってしまえば今の時代が望まない欠陥品であるかもしれないからだ。

時間と言うフルイがそれを排除し、結果優秀な遺伝子だけが未来に残る、
そういう自然淘汰は、最初の命が誕生してから今に至るまで、
無限とも思われる回数を繰り返し行われて、その結果生き残った選ばれた
「襷」だけが今を生きている。そう、自分もその一つだ。

淘汰は自分の世代の直前の世代だってあったはず、その前も、その前もね。

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じゃあ淘汰されて繋がれなかった「襷」は無為なのか?無駄だったのか?

たくさん生まれて、海に泳ぎ出した稚魚の多くは他の生物に食われる。
成長しても食われる。ようやく産卵寸前まで来て、そこでも食われる。
その時「襷」は他の生物が生きる為、他の「襷」を繋ぐ為に使われる。
「襷」を繋いで死しても、その骸は海底で他の「襷」の為に使われる。

つまり、「襷」は「襷同士」で競争するだけでなく、その競争する
原動力として食ったり、食われたりしながら使われるための物なんだ。
食物連鎖というのは、かくも複雑で、かくも偉大なシステム…脱帽。

ただ、残念なことに多くの人間はその食物連鎖に加わっていない。
正確には搾取するだけ搾取するけど、還元しない生物だ。
死しても土葬にして土に還ればまだそのサイクルに入ると思うが、
火葬してしまったらCO2サイクルには乗れるが食物連鎖には乗れない。

そう考えるとチベットなどにある「鳥葬」という死体をハゲワシ?に
食わせるという葬送は、本当の意味で「襷」を自然に返せる方法だろう。

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多くの場合は他の生命に食われて「襷」を繋げなくなる事はない人間、
「襷」を持ったまま、死んでも腐って土壌に還ることも出来ない人間、

繋げない自分を含めてこの「襷」はそれならやっぱり無駄なのか?
結論を言えば、無駄にも出来る。でも無駄にならなくすることも出来る。

繰り返しになるが人間は知性を持った生物だ。しかも生命体としては
イビツな「襷」を渡した後にそれまでと同じくらい長生きする生物だ。
つまり、雄と雌として育って襷を繋ぎ、次の世代をを育てる時間よりも
それを超越した「一人の人間」として生きる時間の方が今は長いのだ。

この時間こそ「生物」として見たらば実に無為な行為と言える。
これ以上新しい命を生み出さないのに、他の命を奪って食し生きるから。
だが、そこで人間は「知性体」として活動して、間接的に同属である
人間の「襷リレー」を有形無形、様々な方法でサポートしているのだ。

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そう、俺を含めて、自分が持つ「襷」を繋げない、繋がない人達は
その人生を「生物」ではなく「知性体」として活動するのだ。

そして、その立場でこそ為せる事をこなす事で、「繋げない襷」を
無意味に消耗するだけの生き方から、ここで途絶えたとしても
今までずっと繋がれてきた事に意味がある事に出来る。

それすら放棄したら原始から途切れずリレーされた命という「襷」を、
そこまで脈々と繋がれてきた、その全てを無意味なものにしてしまう。

「襷」は自分の肩にかかっている、それをどう使おうと各自の自由だ。
でもそれには今まで繋いできた人の、命の、暖かく必死な思いがある。
そして今を生きているどんな小さな命にも一つ一つそれがあるのだ。

そして我らはそんな命を奪って日々食し、
自分の襷と一緒にその命に込められた思いも
合わせて引き継ぎながら、これからを生きるのだ。

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「命はどうして大切なのか?」 「どうして人を殺してはいけないのか」

大人に、親に、こんな問いかけをする子供がいるらしい。
確かに最近は命を蔑ろにするニュースが多い。
そしてこの問いかけに答えられない親や大人もいるという。

仮に自分が問い掛けられたら、前述したような「命の意味」を伝えたい。
俺のような無学な人間が書く拙い文章ではニュアンスすら伝えられないが。

そもそも自分には「襷」を繋いだ子供はいない。
自分の「襷」を繋げない奴にそんなことを語る資格があるのか?
と言われれば、・・・・本当は無いのかもしれないな、マジで。

でもそれでも、今までずっと繋がれてきたのに自分に託されたために
次に繋ぐ事が出来なかった「襷」を持つ者として、その「襷」を
意味在る物にするためにやるべき事の一つだと思うのだ。

今までのように、それが独り善がりだとしてもね。

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無論俺はこれだけのために生きてる訳じゃないわな、当然だ。

いっぱしの技術者として社会に貢献もしたいし
自分にしか出来ない仕事を極めたいし、それで認められたい、
そんな今時の現代人としての欲はあるし、「知性体」としては
蒸気機関程度の頭しかないがそれでも思考を回し黙考する事もある、
新しい知識や経験を得るためにまだまだ勉強も冒険もしたい。

「生物」としての存在意義はもう無くても「知性体」としての寿命は
まだまだ長いのだ。せっかくのそれを有意義に使わねばね(^^)

今までの生き様のおかげで「生物」として自分が持っていた
「襷」の意味が、そこにあった可能性の芽や、それを間引く事で得た
自分自身のポテンシャルが・・・段々判ってきたしね。

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