ミコシ効果
8月までは某社で化学系エンジニアとして研究開発を生業としていた
自分だが、その最中から業務支援と称して長く関わり続けていた、某
地方に点在する某巨大エネルギープラントで行われる特殊処理工事を
担当する部署に9月付けで異動となった。
本拠地に一日出向いただけで一週間の出張に出て、帰ってきて二日間
席に座って異動に伴う諸手続きを行ったかと思ったら、先週とは別の
現場に今度は責任者として行ってこい、という非情な出張指令が出た。
今も某プラントの近所で旅館暮らしの日々。今後暫くの間こういった
腰の座らない現場行脚が続きそうだ。あ~あ、単車に乗りたい(T_T)
そこでの仕事は専門知識を要するために他者では困難な「現場施工に
伴う工事の管理業務」と、その工事によって完成させた装置を使った
「プラント保守エンジニアリング」、…とでも言えば何となく実態に
近い表現になるのかもしれない。
ま、諸般の事情により詳細を語ることは出来ないので悪しからず:-p
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こういった現場で仕事をする場合は、プロパーの社員だけで行う事は
まず無く、数多くの仕事、特に実際に現場で身体を使って働く仕事は、
その多くが下請け、孫請けといった多段構造の中で行われている。
客先からは一業者に過ぎない自分も、実はその中の一つだ(^^;)<ばき
なので社内は無論、社外の様々な立場の人々と接して、交渉し、共に
働かねばならない。その際にはお互いの利害が一致することもあれば、
激しく相反する場合もある。こういった複雑に絡み合った人間関係を
ある一つの仕事をこなすためにどうにか整えて形にした上で運営する、
今の自分の仕事(の一面)はそんなイメージがある。
もう少し詳しく表現するならば、そこに集う人は立場や職能、年齢と
いったパラメータがバラバラであり、基本的にはバラバラな存在だが、
それをある目的のためにどうにかかき集めて一つに束ね、なんとなく
でもいいから同じ方向を向くベクトルを発生させて、それが滞らない
ように、バラけないように上手く誘導したり、引き締めたり緩めたり
する事が「現場監督」としての職能として求められている。
実際はもっともっと複雑だし、想像以上に事務仕事も多いんだけどね。
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そんな所でそういった仕事し始めたのは元カミさんと結婚する寸前、
だったからもう6年くらい前になるのかな?その頃は気付かなかった
けど、しばらくしてから気付いたことがある。
おおざっばな例で申し訳ないが、何名かのパラメーターやベクトルが
バラバラなチームを率いて仕事をする時に、それがまとまらずに苦労
しているような場合、一人や二人では運べない凄く重たい荷物を全員
で一緒に声を掛け合いながら力をあわせて動かしたり、持ち上げたり
するだけで、その作業をした者同士に「一つの事を一緒に成し遂げた」
という声に出さずとも全員体感出来る連帯感、一体感が一瞬生まれる
事に。
何故そう思うか?、というとそんな作業に大体いつも自分も参加して、
終える度にそれをしみじみ感じていたからなのだが、そういったイベ
ントを経験したチームは、その後で様々な過酷な仕事を一緒にしても、
「あの時あの重たい荷物を一緒に運んだ仲じゃないか」という感じの
仲間意識が残っていて初顔合わせのメンバーが揃った時点の仕事ぶり
よりも万事がテキパキ進んで、予想していたよりも仕事が速く進んで、
そしてきっちりと終わるのだ。
当然、重たいものを一緒に運んだ、という単純な事だけでなくもっと
激しい無理難題を乗り越えたりしたチームも、それを越す前と越した
後とで雰囲気が全く違って、より良い方向に進んでいる事が多い。
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これは仕事の世界だけでなく、例えばロミオとジュリエットのように、
障壁の多い恋愛は激しく燃え上がる、とか、死線を乗り越えた戦友は
一生の友達、とか、子育てを共に行った夫婦は絆が深まる、とか…
この手の話は例を挙げればキリが無いのだが、こういった事象の事を
自分は勝手に「ミコシ効果」と名づけて呼んでいる。
それはつまり祭りの御輿を担ぐ集団心理とでもいうか群集心理とでも
言うか…見ず知らずの町人たちが、祭りという非日常的な雰囲気の
中で、御輿を担いで練り歩く、という一見したら非生産的で非合理的
な行動ではあるが、それでもそのたった一つの目的のために全員が力
をあわせて、集い、行動を起こし、そして同じ御輿を担いだ、という
連帯感を共有する事で、地域社会に一体感を持たせる、という一連の
プロセスが、前述した「重たい荷物を一緒に運んだ仲間」という心境
と同じでないのかな、と思う。もしも悪い方向に働けば狂信的集団に
なってしまう事もあるけどね。
これって、実は人間社会の中でとても重要な働きをしていて、人間が
「個の動物」ではなく「集団の社会を作る知的生命体の『人間』」で
ある、原点にして、原理のような、そんな気もするのだ。
汗を流して御輿を担いでいる集団を外から見ているだけじゃこの一体
感は共有出来ない。自分から飛び込んで、一緒に御輿を担いで、同じ
ように汗を流すとそこに言葉なんか要らない、皮膚感覚だけで十分だ。
だから自分は管理監督する「現場監督」でありながら、多くの作業を
作業者と一緒になって行う「プレイングマネージャー」でありたいと
思うし、実際にそうやって現場では働いている…つもりだ<ばき
熟練の職人から見れば、まだまだヘッピリ腰なんだろうけどさ(^^;;)
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ちなみにこの「ミコシ効果」、これは例えば同じ時空間で同じ行動を
してなくても、過去に似たような経験をした人間が今を感じて思い出
して、その人の言動や行動に共感出来る、といった行動も同様に説明
出来ると思う。つまりそれは「同じ波長を感じ取り、同じように鳴る
音叉を持つ」って事だ。
多くの「音叉」を持っている人は自分のように愚直に中に飛び込んで
御輿を担がなくても、立派にその集団の中に入っていける。とはいえ
その「音叉」は過去に一緒に御輿を担がなければ、または同じ思いや
経験をしなければ得られない。これは今の自分にはまだ無いモノだ。
長年関わってきた研究開発の場でなく、今の現場では38歳の中年男も
まだまだ若ゾー、オールドルーキーとして人一倍頑張ってその集団に
揉まれて、小突かれながらであっても、これから数多くの新しい御輿
を臆さずに担いでみようと思うのだ p(^◇^)q
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以下蛇足:
こういった「同じ心の音叉」を持った人同士は、全くの赤の他人より
早くに判り合えるし、理解しあえる。人は生きて、学んで、成長する
事で、この「心の音叉」を数多く持つようになる。だから知識と経験
を重ねた、人ととしての器の深く大きい人は、様々な事象やそれに纏
わる心境を理解や共感が出来るのだ。
自分は残念ながらその「音叉」の保有数が人一倍少ないようで、人の
器は小さくて、そして悲しい程に浅い。それを見事に証明してくれた、
心の音叉が共鳴した、と自分は思っていた元カミさんとも、最終的に
聞くに堪えない不協和音を鳴らしたし、例えば子供を産み、育てると
いった夫婦二人で担ぐべき「重たい御輿」を一緒に担ぐ事もなかった。
「軽い御輿」はそれでもたくさんあったが、二人で一緒に同じ御輿を
担いでいるつもりが、実は自分一人で担いで騒いでいただけ、という
ホント情けない状態だったもんなぁ、あの頃は_| ̄|○<ばき
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