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2010年1月

2010.01.31

縁はこうして切れてゆく

出先の宿でTVをつけたら、またNHKで「無縁社会」のスペシャル
番組が流れていた。今日は「無縁死」らしい。そういや以前自宅の
隣に住んでいた一人暮らしのおっちゃんが死んだ時にネタ
UPした事があったっけ。要はそういう事だな。

自分自身、過去にそんな経験が2回もあるが、どうも最近は
こんな出来事が、あちこちで起こっているらしい。

これだけ家族や地域や、社会との繋がりが希薄な時代では
これからこういう死に方、弔われ方が、スタンダードになって、
家族に看取られて、遺族が弔うという今のスタイルが段々と
異端になってゆくような、漠然とそんな気がする内容だった。

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そういや先日、そのNHKの特集番組「無縁社会」についてチョロっと
書いてみた

さらに最近どういう訳か、こんな所を訪れる人が増えているようで、
思うにそのキーワードを検索エンジンにかけて、この辺鄙なBlogに
飛んで来ている人が多い気がする。

ためしにGoogleで「無縁社会」で検索すると、最初のページの、
しかも上から四番目にこんな矮小なBlogがひっかかる。
あらあら、ごめんね、そうやってここに来てしまった皆さま。
単なる独り言の、大した内容じゃないBlogで本当にごめん。

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多分そのせいと思うけど、どうもNHKのこの番組の担当者もここに
辿り着かれたようで、自分にコンタクトを求める私信のメールが
一週間ほど前に届いていた。可能であれば連絡して欲しい、と
いう丁寧な内容のメールだ。

だが、残念ながら今の自分は地方の現場に島流しにあっている
ので、とてもそういう対応が出来るような状態じゃない。

なので大変申し訳ないけど、その話を丁重にお断りをさせて頂いた。
折角声をかけて頂いたのにすみませんm(_ _)m>NHK担当者殿

もしネット上の著作権問題とかの特集を作る機会があればこんな
セコいネタでよければ素材がありますぜ<ばき

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でも、その事で、ふと思った。

まるで宇宙空間のように広いネットの中でこんな地味なBlogを見つけ
コンタクトを取ってもらえたって事が、まさに一つの「縁」であるんだ。
でも、その「縁」を仕事が忙しくて対応出来ない、という事を言い訳に
して、その貴重な機会を自分はあっさり破棄してしまっている。

…もしかしてNHKの言う「無縁社会」っていうのは、番組を見ていると
主に家族という「縁」の喪失であるようだけど、それらを細分化して
分析してみると、実はこういう事の積み重ねと連鎖の果て…じゃ
ないのかな?って気もするのだ。

家族と離別し、独りで暮らしていたって、毎日行くスーパーのレジの
人に気楽に声をかけていればおなじみになり、お得意さんになり、
その店が行き着けの店になって、もしかしたら客同士で交流が
生まれるかもしれない。スーパーでなければ病院でもいい、今も
通っている某病院には、その「縁」目当てに?毎日通っているらしい
老人が沢山いるぞ(^^;)。それだって立派な「縁」じゃないか。

なのに、なぜ人は最期には「無縁状態」になって孤独で死ぬのか?

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こんな自分でも生きていく中で、本当はもっともっと今以上に沢山の
人や物事との「繋がり」を紡ぐ機会が、実は本人がびっくりする程に
沢山あるんだと思う。それは多分死ぬ瞬間までね。でも今の自分は
そんな「縁」を、今回は「仕事が忙しいから」、と言って、ざっくりと
切ってしまっている。

でも、折角の「縁」で結ばれた元カミさんともブッツリと切れたように
今自分を社会に強固に繋ぎ止めているかのように見える仕事という
「縁」も、強固なようで実は相当脆くて、いざ寄りかかるとあっという
間に切れてしまう、まるで蜘蛛の糸の如く細く弱いモンなんだろう。

そういう場合に本当に強いのが「家族」という「縁」なんだろうな。
夫婦という「縁」は二人で大切に育てないと強くはならないが<ばき

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今自分は、「生きるために働いている」けど、そのために新しい縁を
紡ぐ事が出来ないでいるのかもしれない。今の縁を保持するために
新しい縁を拒絶しているのかもしれない。そう考えると、現状から
脱出するためには、本当は今の縁と同じくらい、新しい縁を求める
努力をすべきなんじゃないか?

少なくとも自分は一度は結婚してみたから「生涯未婚」ではないが
残念ながら結婚して家族を持つという選択肢は自分にはもう無いし
子供もいないから、結局未婚者の将来と何ら変わらない。

ではこれから生きるために必要な、今自分が手にしている以外の
「新しい縁」、「新たな絆」って、具体的に一体何だ?

それは今の仕事の「縁」の中にあるのか?
それともそことは全く別の場所にあるのか?

不惑の歳になったのに、まだそれが判らない自分は未熟だ_| ̄|○
ただ、それが仕事の方ではないような…そんな感じだけはする。

仕方ないから、それをもう少しだけ手探りしながら生きてみよう。
多分、こんな自分にだってもう少しくらいの時間が、そして今とは
違う何かしらの「縁」がきっとあるはずだから。
 

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2010.01.27

気分を切り替える必要アリ

いや~、忙しくてなかなかここを更新できません、ごめんなさい。

今日はちょっと早く帰ってこれたので、短いネタを軽くジャブとして
UPしてみまっす。

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前回右後ろをコスって傷物化したウチのレガシィ2.0i(5MT)、修理が終わり
手元に帰ってきた。修理費は全額保険屋持ちなので一円も払わず完了。

修理の間、用意されてた代車はこんな車。一代前のインプレッサ1.5i(FF)。

Inp

貸出す条件としてスタッドレスタイヤ付を指定したらこれしかなかった。
FitとかVitzとかの、今のコンパクトカーとか、インサイトとかが良かったが。

でも、このインプレッサ1.5i、4ATとあいまってあまり走らないんだろうな、と
思っていたら思っていたより普通に走れた。街中でも、高速道路でも、だ。

シティーコミューターとして考えたら、この車はそれはそれでアリだ。

自分がレガシィを買って暫くした頃に、インプ1.5iは車両価格100万位で
叩き売りされていたけど、レガシィ2.0iの半額以下で新車が買えたのなら
無茶苦茶お買い得だったかもしれない。

日本で使う車の経済性と実用性と安全性を高次元で両立してるのは、
1.5Lのこのクラス、要は(もうないけど)サニーやカローラなんだろうな。

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で、戻ってきたレガシィ2.0iに乗ってみたら、今まで遅ぇ~!、でもこの
マッタリ感が低燃費を生むんだよねぇ。と思っていたエコランスペックが
低速から意外とトルクフルで、軽い車体をグィグィと機敏に駆動して速く
走る車に感じられた。やるじゃん2.0i。…でも残念ながら、すぐに慣れて
しまったのであっという間に終わっちゃったけどね。

やっぱり1.5Lクラスは軽い2Lクラスと比べると走る喜びとか操る楽しみ、
そういうのはあまりないよ、今回借りたインプも職場で使ってるサニーAD
バンと同レベルの運動性能だもの。でも遅いけど実用上は何の問題も
ない。つまり趣味性は無いけど、極めて優秀な実用品って、事かな?

今回はそんな道具である四輪車を、バイクのように趣味性のある
乗り物として気分を切り替えるための小道具を紹介してみる。

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もともと単車乗りである自分は、四輪の運転はバイクほど好きじゃない。
武装して風と闘う乗り物であるバイクに対し、車は寝巻きで運転出来て
しまうような、よく言えば気楽さ、あえて悪く言えば緊張感に若干欠ける
感があるからだ。

なので、車を運転するときに、バイクにおけるヘルメットを被るような、
気分の切り替えをするために、自分は今となっては古風なドライビング
グローブを愛用している。MT車を操るのにはこういう小道具がキクのよ。

そして、運転席に乗り込んで、エンジンをかける前に、まず両手にこの
グローブを装着する事で「よしっ!やるぞ!」というような、気合の入れ
替えを行い、自らのダルな心を「運転モード」に切り替えるのだ。

Shift

これにはそういう意味だけじゃなく、シフトノブをノーマルの本皮仕様から
冬は冷たく夏は熱い金属製のモノに変えているので、その温度差を緩和
するためでもあるし、手の平の中でコロコロ&スルスルと滑らして転がし
小気味よくシフト操作をする為でもあるんだけどね。
 
最近はぜんぜん流行らないけど自分はこの手のドライビンググローブが
好きなんだなぁ(^^)♪
 

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2010.01.06

NHK「無縁社会・日本」

今後単身世帯が増えて、人と人との係わり合いがなくなって行き
単身世帯は孤独と戦うようになる、というような番組が出張先の
宿にあるTVから流れていた。

そこに登場する連中は、間違いなく、自分自身の未来像そのものだ。
ちょっと残念だけど、もうそれは変えようがない、固定された未来だ。

確かに今は働いている、集団の中で生きている。でも時間が経てば
自分もいつかはこうやってどこかの寂れた公営団地に流れ着いて、
そこで細々と暮らし、あっけなく息絶えて干からびるか腐敗して、
悪臭を放った即身仏として発見されるんだと思う。

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そこに至ってしまう自分の命運は変えられないのは仕方ないとしても、
そこに到達して終焉を迎える前までに、こんな自分に何が成せるか?

何も残せない自分の人生は、強いて例えるならば、花火みたいな
モンだろうと思う。ただ花火といっても(人もそうだが)ピンキリだ。

大輪の花を天空に咲かせ煌いて人を沸かせ記憶に残るのか?
ヘビ花火のように地に灰を撒いた挙句折れて踏まれて終わるか?

それはまだまだ判らないよ、このまま不発で終わるかもしれないし
一発!ドデカイ華を咲かせるかもしれないしね。(^~^)<ばき!

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今年は自分も41歳となる。となると、終の棲家となるボロい公団団地に
流れ着くまでにあと20年くらいしかないし、そこでノタレ死ぬまで長くて
せいぜい10年くらいだろう。つまり命の残りは長くても30年くらいだ。
当然それまでに倒れる可能性もこれから日々高まって行く。

余命宣告としての残り30年という時間は長いようだけど、短いカモ(^^;)
だが、あと一週間の命だろうが、一年の命だろうが、30年の命だろうが
命は命だ。その残された命の意味をその間にどれだけ表現出来るか?

…そう考えると、時間がもったいないなぁ、一日一日を有意義に使って
頑張って生きないと、本当に勿体無いや。そう考えると今日一日は
命のろうそくを1/10000ほど減らした甲斐が無かったような気がする。

せめて明日の夜寝るときには、明日という一日を、その間確実に
死に近づいたという現実を、後悔しないで納得していたいもんだ(^_^)
 

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