仮設の街の中で
前回投稿してからすぐに、また現場に出張に出た。
今度の現場は津波の被災地。それ以前に定宿にしてた
港町はすべて津波で流され、地域で更地と化していた。
震災から半年たっているから、すこしは復興したのかと
勝手に思っていた。でも被災地は、ガレキが整理された
だけで、人々の暮らしは避難所と仮設でやっと成り立つ
状態で、震災以後はじめてその場に立って、あまりの
惨状に、ただただ呆然とするしかなかった。
報道されて細切れに目にする被害と、その場に立って
見た被害は、多分100倍くらい違うと思う。出来る事なら
あらゆる人が、この場に立ってそれを見るべきだと思う。
あまりにも痛々しくて、軽々しくカメラで撮影なんてとても
出来なかった。…本当にここにあの町があったのだろうか?
何かの間違いじゃないだろうか?
宿泊したことのある旅館の建物は鉄筋だったので、まだ
残っていた。でも破壊の限りをつくされた状態でボロボロ。
4階建てのこのビルが、津波で完全に水没したそうだ。
何も無くなってしまった街だった場所で、目をつぶると
脳内ではかつてここにあった風景がよみがえる。ここには
いつもBGMに演歌が流れている古びたスーパーがあって、
こっちにはレーベルが日光で脱色しまくったCDが並んで
いたレコード屋、隣は文房具屋、その正面は本屋だった。
あっちには居酒屋があって、少し離れたところに小さい
焼き鳥屋があって、そこには陽気な店主と女将さんが…
でも、目を開けたとたん、そこにあるはずの町並みは無く、
ただコンクリートの土台だけがある。これがバーチャル
リアリティだったよかったのに、正真正銘のリアルなんだ。
かつての戦争で、空襲で焼け野原になった町を見た人は、
多分自分が感じているのと同じ感情をもったんだろうな、と
思う。
しかも、まだ町はまだガレキが片付いているからいいが、
そこから遠く離れた小さい漁村の状態は、まだ津波で
流されたときのままの家が傾いてそのままの姿で残って
いたりする生々しさだ。
今回の出張ではさすがに、そこに宿を確保することは
出来ず、かなり離れた市街地にある仮設の寮に入る
事になった。
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その市街地でも、湾岸部は津波にやられていて、道を
走ると信じられないくらい大量に積まれたガレキの山…
何百台あるのかわからないくらいたくさんの廃車の山…
更地化した住宅街の奥には、一階をすべて津波に
ブチ抜かれてしまっている、全壊といってもいい被害を
受けた町並がずっと続いている。昼はまだいいが夜に
なるとそこに灯る明かりはわずかで、町並みが真っ暗で
そこに人がほとんどいないことがわかる。寂しい。
目指す宿は、潮を被って塩を噴いた、磯臭い田んぼを
埋め立てたところに急造されたプレハブの建物。
その周りには、仮設住宅がたくさん並んでいた。
本来ここにいるはずの無い人たちが、津波で被害を
受けて、自分を含めて集まっている。あれだけ激しい
被害の中で、命を永らえた事だけでも、奇跡に近い
事なのかもしれない。でもそんな生き残った人たちも
残り2年間で仮設住宅を出て行かねばならないという
砂時計が突きつけられている。
一瞬で完全に何もかも流されて失ってしまった人が
たった2年で自立を果たすのはすごく難しいと思う。
もっともっと、手厚く息の長いアテンドが必要だろう。
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自分にあてがわれたのはプレバフの建物の一室。
新築なんだけど、歩くだけでギシギシ音が出る。
広さは4.5畳で、備品は布団だけしかないこの部屋、
でも、この場でそれがあるだけでも、幸せなこと。
屋根があって、壁があって、畳があって、布団があって
電気がついて、水道が出て、PCがあり、PHS経由で
だけど、ネットにも繋げられる。
半年前に当たり前の日常生活や、町並みを津波に
根こそぎ奪われた場所で、ヨソモノの自分にそれらが
与えられている事だけでも幸せだよね(^^)
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この場で自分が行う仕事は、この地域の震災復興の
一翼を担う。ここの人はみんながまた立ち上がるべく
だれもが頑張っている。だから自分も出来る事をやる。
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