父の死
先週末、父親が亡くなった。
もうかなりの高齢だったし、現代医学では治らない(悪化を遅らせる事だけしかできない)難病にかかっていたので、もう数年前から覚悟はできていた。なので、友人や知人を交通事故や自死で亡くした時のような激烈な悲しみは今は感じない。とはいえ人生を長く一緒に過ごしていた肉親であり親だから、きっとこれからそれなりの喪失感がやってくるのだと思う。
父は、ありていに言えばよく出来た人だったと思う。両手放しにベタ褒め出来るかというと諸事情で100点ではなかったと思うけどそれでも95点くらいは付けてもいいくらいの人間味もある立派な人だった。完全無比ではなくたまに失敗はするけど最終的にはそれを糧としてリカバーして行くタイプ。理系の技術者で、仕事人としても尊敬に値する人だった。
自分はその人の子供として、同じように立派に育ったのか?、と言うとそこは盛大な疑問符は付く。何せ自分はココにツラツラと泣き言を書いてるような、『こういう人間』だからね。あ、読んだことのない人は適当にかいつまみながら過去ネタを呼んでみてください(自虐)
仕事人としての自分は、父が行けた所にはたどり着けなかったけど、それでもある程度の所まではこれた。多分それは今は亡き父も生前はきっと認めてくれていたと思う。
家庭人としては妻と子供5人を一人で支えて育て上げてるから、これは正直マネが出来ない偉業だ。まぁ自分はバツイチで子無しだから同じ土俵にすら立てないのだけど、それでも普通の技術系サラリーマンがいわゆる一流企業の中で、普通ではたどり着けない程度の地位に努力の末に登って、最終的にはある程度の給料を得て、妻と5人の子供を養ってた。これは仮に自分が離婚せず子供を成すことが出来たとしても、同じ事は出来なかったと思う。とはいえ一時期は他人に正直に言うとドン引きされかねないくらいの貧乏生活も過ごしたんだけど、今ではそれも良い笑い話だ。
同い年の母とは中学入学の同級生だったころからの付き合いで、高校大学と交際を重ねて、就職する前の大学院生のうちに学生結婚、就職後に自分を含む5人の子供を成して、まさに死が互いを別つ時まで添い遂げてる。これも僅か17カ月で結婚生活を終えた自分とは勝負にならないくらいのツワモノだ。ある意味、究極理想の夫婦像なのかなと思う。そういえば自分が子供の頃は両親が喧嘩しているところを一度も見たことがない。とはいえ実は子供には見せないようにお互い配慮しながらも、ちゃんと大なり小なりの喧嘩はしていた、と後になって聞いた。そういう所も脱帽だな、と思う。
そういう両親が過去から受け継いで、そして自分らの子世代に繋いだDNA、こういう自分の手に託された分を自身は未来に襷渡しすることは出来なかった。そういう点では親不孝極まれると思う。でも他の兄弟は子を成して次の世代を生み育てて、両親がこの世で出会って生きて未来に託した命と言う襷はきっとこれからも繋がって行く。自分はその先を見届けながらいつか一人で死ぬ。
父は、もう命の炎が消えかかってるから会わせたい人が居たら早く連絡を、という主治医のカウントダウンスタートの連絡を受けて慌てて集った多くの身内親戚縁者(この中に自分も入る)と、死ぬ数時間前まで普通に会話し、別れ際に相手の手を力強く握りかえす握手をして別れ、すべての面会者が個室の病室(最期の別れが出来るように病院側が配慮をしてくれた)を出てから、ほんの数分で容態が急変、その後2~3時間後にあっけなく亡くなった。
かなりの高齢でありながら記憶力もありボケもせず、足腰も歳相当に弱ってはいたけど身内が辞めろ免許返納しろというのも聞かず、亡くなる2週間前まで一人で車を運転して、持病とは異なる手術を要する病変で倒れて救急車で運ばれ入院してから外科手術を受け、それは成功したけど、老人性誤嚥性肺炎を発症して死にかけて、そこから復活し、最期は長年闘ってきた難病の急激な悪化が生じてそれが死因となった。
その1週間ほどを病室で過ごしただけで、難病対応の通院や服薬、家庭用の酸素供給機などの対応も自分で行い、身内に負担を課す介護などは一度も発生せず、入院後は集中治療室で数回死の淵を覗いては戻ってきて、死が迫る直前まで矍鑠とした態度で来客を迎えて会話して過ごし、そしてそれを終えた後に長年連れ添った母にだけは苦しんでる姿と弱い所を見せながら、本人には覚悟が出来ていたのだろう、苦しみの中で過大な延命処置を拒み、母に見送られて逝った。
…果たして自分にこんな死に方が出来るだろうか?、そう考えると、父にはやっぱり敵わないな、と思う。
父さん、あなたの子供として生まれてきて、共に暮らしながら育ててもらい、生きること、遊ぶこと、学ぶこと、働くこと、家庭…はゴメン自分には出来なかったけど、最期に死に方までも模範を示してくれてありがとう、ただただ感謝します。
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