2023.07.24

父の死

先週末、父親が亡くなった。

もうかなりの高齢だったし、現代医学では治らない(悪化を遅らせる事だけしかできない)難病にかかっていたので、もう数年前から覚悟はできていた。なので、友人や知人を交通事故や自死で亡くした時のような激烈な悲しみは今は感じない。とはいえ人生を長く一緒に過ごしていた肉親であり親だから、きっとこれからそれなりの喪失感がやってくるのだと思う。

父は、ありていに言えばよく出来た人だったと思う。両手放しにベタ褒め出来るかというと諸事情で100点ではなかったと思うけどそれでも95点くらいは付けてもいいくらいの人間味もある立派な人だった。完全無比ではなくたまに失敗はするけど最終的にはそれを糧としてリカバーして行くタイプ。理系の技術者で、仕事人としても尊敬に値する人だった。

自分はその人の子供として、同じように立派に育ったのか?、と言うとそこは盛大な疑問符は付く。何せ自分はココにツラツラと泣き言を書いてるような、『こういう人間』だからね。あ、読んだことのない人は適当にかいつまみながら過去ネタを呼んでみてください(自虐)

仕事人としての自分は、父が行けた所にはたどり着けなかったけど、それでもある程度の所まではこれた。多分それは今は亡き父も生前はきっと認めてくれていたと思う。

家庭人としては妻と子供5人を一人で支えて育て上げてるから、これは正直マネが出来ない偉業だ。まぁ自分はバツイチで子無しだから同じ土俵にすら立てないのだけど、それでも普通の技術系サラリーマンがいわゆる一流企業の中で、普通ではたどり着けない程度の地位に努力の末に登って、最終的にはある程度の給料を得て、妻と5人の子供を養ってた。これは仮に自分が離婚せず子供を成すことが出来たとしても、同じ事は出来なかったと思う。とはいえ一時期は他人に正直に言うとドン引きされかねないくらいの貧乏生活も過ごしたんだけど、今ではそれも良い笑い話だ。

同い年の母とは中学入学の同級生だったころからの付き合いで、高校大学と交際を重ねて、就職する前の大学院生のうちに学生結婚、就職後に自分を含む5人の子供を成して、まさに死が互いを別つ時まで添い遂げてる。これも僅か17カ月で結婚生活を終えた自分とは勝負にならないくらいのツワモノだ。ある意味、究極理想の夫婦像なのかなと思う。そういえば自分が子供の頃は両親が喧嘩しているところを一度も見たことがない。とはいえ実は子供には見せないようにお互い配慮しながらも、ちゃんと大なり小なりの喧嘩はしていた、と後になって聞いた。そういう所も脱帽だな、と思う。

そういう両親が過去から受け継いで、そして自分らの子世代に繋いだDNA、こういう自分の手に託された分を自身は未来に襷渡しすることは出来なかった。そういう点では親不孝極まれると思う。でも他の兄弟は子を成して次の世代を生み育てて、両親がこの世で出会って生きて未来に託した命と言う襷はきっとこれからも繋がって行く。自分はその先を見届けながらいつか一人で死ぬ。

父は、もう命の炎が消えかかってるから会わせたい人が居たら早く連絡を、という主治医のカウントダウンスタートの連絡を受けて慌てて集った多くの身内親戚縁者(この中に自分も入る)と、死ぬ数時間前まで普通に会話し、別れ際に相手の手を力強く握りかえす握手をして別れ、すべての面会者が個室の病室(最期の別れが出来るように病院側が配慮をしてくれた)を出てから、ほんの数分で容態が急変、その後2~3時間後にあっけなく亡くなった。

かなりの高齢でありながら記憶力もありボケもせず、足腰も歳相当に弱ってはいたけど身内が辞めろ免許返納しろというのも聞かず、亡くなる2週間前まで一人で車を運転して、持病とは異なる手術を要する病変で倒れて救急車で運ばれ入院してから外科手術を受け、それは成功したけど、老人性誤嚥性肺炎を発症して死にかけて、そこから復活し、最期は長年闘ってきた難病の急激な悪化が生じてそれが死因となった。

その1週間ほどを病室で過ごしただけで、難病対応の通院や服薬、家庭用の酸素供給機などの対応も自分で行い、身内に負担を課す介護などは一度も発生せず、入院後は集中治療室で数回死の淵を覗いては戻ってきて、死が迫る直前まで矍鑠とした態度で来客を迎えて会話して過ごし、そしてそれを終えた後に長年連れ添った母にだけは苦しんでる姿と弱い所を見せながら、本人には覚悟が出来ていたのだろう、苦しみの中で過大な延命処置を拒み、母に見送られて逝った。

…果たして自分にこんな死に方が出来るだろうか?、そう考えると、父にはやっぱり敵わないな、と思う。

父さん、あなたの子供として生まれてきて、共に暮らしながら育ててもらい、生きること、遊ぶこと、学ぶこと、働くこと、家庭…はゴメン自分には出来なかったけど、最期に死に方までも模範を示してくれてありがとう、ただただ感謝します。
 

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2023.05.30

気が付けば20年

今日5/30は自分の離婚記念日。結婚した日はだいぶうろ覚えになってきたけど、この日だけは自分にとっての絶対座標なので、たぶん死ぬまで忘れることはないと思う。

この日には、最近のワカモノ事情を組み合わせて長文書こうと思ってたんだけど、今日は職場で労災が発生し、その対応で責任者として最後まで職場に残ったのでこんな時間に帰宅して気力がないので、記念日ネタだけでご勘弁。そっちは近いうちにupします(^^)

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たった1年と5か月しかなかった結婚生活だから、そっちにはその後積み重ねたその後の20年間に埋もれて、かなり記憶の彩度は落ちてきた感がある。後半は軋む関係に苦しかったけどそこに至るまでと、始まった前半は自分だけは人生で一番幸せでうれしくて楽しかった、それを超える経験は多分死ぬまでできない。相手もそうだったら結果は違ったんだろうけど、それはもう何を言っても仕方がないのでパスだ。

ここで何度も言ってるように、自分は元カミさんが、自分と別れることで幸せに生きる方向に舵を切って進んだ人生が彼女にとってのベストだと思ってるし、それゆえに自分といるよりもはるかに幸せになれたと信じてるし、だから今でも、これから先いつまでも幸せであって欲しいと思う。その思いは20年間変わらなかったな。我ながら一途だね(苦笑)

20年前のこの日に、ではこれでさようなら、と別れてから一度も会ってないし電話等で話もしてない。専業主婦だったので年金手帳を預かって会社に出してたのでそれを返す連絡をその後にメールで送ります、とやっただけだったっけ?、預かった連絡先のメモもそれに同封してその後電話番号もメルアドも何もかも抹消したから本当にそれっきり。なので今日改めて思い出そうとしても、あの当時は4K画像のように思い出せたそういう情景も、もう20年間の劣化が進んで崩れかけて色あせたジグゾーパズルみたいになってるんだなぁ、自分にとっては。

人間のいいところはそうやって記憶の鮮度が下がってゆくことだと思う。これが常に鮮度100%のまま心に残ってたら、自分は今生きてないと思う(苦笑)。どんな事でも色あせて、ぼやけて、かすんで、その上から毎年薄く積み重なる新しい経験と記憶で覆い隠していけるから、人は何があっても未来に生きていける。…で、こうやって生きてる(自爆)

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自分の人生に沢山の影響を与えたそれらの経験も、今の自分を形作る土台として表に出ることはなくてもしっかり自分を形作って支えてくれると思う。人生の経験に無駄はないという、そう考えると20年前の自分よ、あの日の絶望の夜も、20年後にはどうにか明けたよ、と言えると思うぜ。望んでた未来には行けなかった、そういう生き方は出来なかった。でもまぁそれはしゃーない。それを失ったことで、出来たこと、たどり着けた未来もあったんだよ、と、もし自分が過去に戻れて当時の自分に語り掛けることが出来たら言ってやりたい。

まぁその翌日から、半身を生きながらに割かれたような半分の荷物家財がなくなったその時の住居からすぐに逃げ出すために死に物狂いで引っ越し先を探して一か月以内にバイク8台持って引っ越しできる素晴らしき旧宅を見つけてその貧乏長屋での生活にも慣れた翌年の5月にここを始めてるから、それがもしも無くなると今につながる自分も存在しない事になるんだけどね(タイムパラドックス)

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2023.01.02

スマホは「真を写す」のか?

ショート失礼。

テレビ受像機を持ってないので、箱根駅伝の中継をAMラジオで聞く正月の朝、鶴見の中継所の状況を伝えるアナウンサーが、どこかの選手がランナーを待っている間に「写真を撮っていた」としゃべっていて、それに何か違和感を感じる自分がいた。

昭和生まれのオッサンだから、「写真」っていうのは銀塩の光化学反応で、そこにある光に映されたありのままの像を2次元の印画紙に焼き付けるイメージがある。ソニーのマビカから始まった、半導体電子素子で電気信号に変換され二値化したデータを保存して別デバイスであるディスプレイでそれっぽく再現して再生する俗にいうデジカメ画像はどちらかというと「録る」の静止した画と言うイメージで、それを仮にカラープリントしたとしても、それを印画紙と同じように「写真」と表現することに、根拠なく心理的な抵抗感があったからだ。

今のデジカメやスマホの撮影機能は下手な高級一眼レフの高性能フィルムのそれよりも上だというのに、なぜそう思うんだろう?、デジタルは様々な電子補正がかかっているから?、加工が容易だから?、でもフィルムカメラだって決してそのものを写し取っているわけじゃなく、レンズ前にフィルターを入れたりレンズで捻じ曲げたり、様々な手法を駆使して真の姿を、意図的に演出して造り上げているのにね。

これは手作りと機械作り、天然ものと養殖もの、現場手組とプレハブ加工といったものの、前者を然したる根拠なく何となくありがたがる大衆心理と同じなのかなと思う。本当の本質としては差がないのに、そこに心理的な付加価値があるような、そんな感じ。

そう思う根拠はそれまでの狭く短い人生経験だったり、外部からの(決してプレーンなものではなく著者などの偏向が入った)知識の集積だったり。でもそれにはそう信じるに値する経験もあってそれを上書き肯定してきたからこそ、確立した価値観なんだと思う。とはいえ誤った情報をそう脳内で反芻しているとしたら、それは洗脳そのものだったりもするんだけど。

…自分は本当にその物や出来事を一切の補正や加工を受けない形で正しく認識して理解してるのかな?。そう思ってるだけで実は何かしらの影響を受けた勝手な価値観フィルターをかけてるんじゃないかな?、それこそが真理を歪めて「真」を見失った物事の見方そのものなんじゃないのかな、なんてことを、AMラジオを聴きながら考える。

…いい年したオッサンで色々な事を何となく達観してるようなつもりでいても、実はまだまだ未熟なんだな(苦笑)


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2022.05.30

今日は私的記念日(’忘れてた)

世間一般は平和と程遠いロシアのウクライナ侵略と、平和だねと思わせる矢部美穂女史の結婚の話題しかないような感じだけど、自分がいつも聞いてるラジオのニュースで「今日は5と3と0にかけて『ゴミゼロの日』なんだそうです」、という話をしてて忘れてた何かを思い出した。

…ああそうだ、自分のあいまいな記憶が確かなら5/30といえば、自分が離婚した日じゃないか。ゴミゼロの日と同じ日、で記憶の片隅に残ってた(苦笑)。もう何年前だっけ?19年?20年?祝う記念日じゃないからそこまで覚えてないや(^^;)

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今から思えば、こんな自分が結婚してた、なんて何かの間違いだと思う(実際間違いだったわけなので離婚に至ったわけなので間違ってない)でも、すごく短い間ではあったけど嬉しかったし、楽しかったし、生きる事の幸せも感じられたから自分はいい経験をさせてもらえたなと感謝の念しかない。その思いは今も継続。ただただ、ありがとう。そして自分なんかに関わらせてしまってごめんなさい。その感情しか残ってない。

あの時最後に見送ってからは一度も会わず、話もせず、専業主婦だったので自分の会社に預けてた彼女の年金手帳を郵送した時に今までありがとう、の手紙を書いて同封したのが最後のコミュニケーション。その後は会う必要もないし、電話もメールすらなく、会いたいと願わずに今に至る。同じ時間軸同じ座標に存在していても、ネジレの空間に居る存在でどこまで行っても交わらない、それでいい、それが最良の策だった。

何度か「それでいいの?本当に?」などと無神経に聞かれた事は何度もあったけど、それでいいんだよね。だって自分が一生添い遂げたいと思ってた人はもうその身体には入ってなかったんだから。消えたとか死んだというよりも、元々架空の存在、だから仮に望んでも願っても、物理的な面会は出来ても精神的な面会は出来ないと判ってた、残念ながら。

正直なところ、もしその時の中身だった存在に会えるのなら、入ってる器は正直どうでもよくて、老婆でもオッサンでも、犬でもネコでも昆虫でもミミズでも草でも石でもいいから会ってみたいなと思うことは、自分は弱い人間なんで申し訳ないけど無いと言えばウソになる。でもその魂は元々フィクションで最初から存在しなかった。…まぁそういう事にしといた方がいいんだと思う(謎)

そういうことはヨコに置いておいても、もともと自分はそういう生き方していい人間じゃないってことがこれで判ったんだ、そこが自分にってお最大のメリットだった。人生七転び八起き、転んでもタダじゃ起きないよ(^^)

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どうであったかなんて事は今更どうでもよくてそういう過去は過去、大事なことはその過去を顧みて同じ失敗をしないよう繰り返し反省すること(これが出来ない人のなんと多いことよ…)、そしてその経験を生かして先に進むこと。

離婚してから現時点では、自分はみっとみないくらいに藻掻いて足掻いてきたけど、その時々にやれる範囲で頑張ってきたな、と思う。家庭を持つ夢は叶わなかったけど、今もそれなりに生活は出来てるし、今後の準備も整ってきてる。今の全てはあの時の人生リスタートから築いた結果。ゴールはまだ先、そこまでの道のり苦楽があると思うけど、それを笑ってやり過ごせるくらいに強い人間になりたいと、と私的記念日に思うのだ。

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2022.03.30

当たり前なんだけど、よく噛もう

ここ最近、Youtubeでショートの動画を見てる。

どうでもいいジョーク動画や、ゆっくり解説系や、芸の無い芸人のわざとらしいチャンネルには興味がない、自分が見るのは生き物系の動画が多い。そして最近はヘビがカエルを丸飲みするところや、カエルがネズミやハムスターと言った小動物を丸飲みする捕食系動画がちょっと気になってる。

食われる側からすれば可哀想!、となるのだろうけど、食う側からすればそれは御馳走にあるつけるチャンスな訳で、立場を変えれば残虐動画にもほのぼの動画に見えるという不思議。そして命がああやって食われて次の命の糧になるという目を背けてはいけない自然の摂理、それにちょっと引かれる。

その動画をみていると、丸のみしたエサとなった小動物は、その姿のまま捕食者の体内で死に至り、そして消化されてゆく、と容易に想像できる。まぁそれは当たり前なんだけど、それを見てて食した食物を消化器でそのまま消化するのは大変だよなぁと思って、ふと気が付いた。

自分が食ってる日々の食糧、コレ最近よく噛んで食ってないような…?

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自分は31歳の頃にROICE'のホワイト生チョコにびっくりするほどドハマリして食い続けて虫歯になったのが最初で最後の虫歯で、それ以前もそれ以降も虫歯になったことがない。永久歯も真横に生えて圧迫した下の親知らず二本は抜いたけど、それ以外の歯は全て残ってる、幸せなことだ。

だから根気よく咀嚼することはそんなに苦じゃないんだけど、ここ最近あまりよく咀嚼せずにモノを食ってるようなきがしてきた。試しにある時に口の中に固形物感が無くなるまでガンガン咀嚼してみたけど、その時にいつもこんなに噛んでないわ、ということに気が付いてしまった。

砂肝とか、胃石とかを持ってるわけじゃないから、食料を物理的に細かく砕けるのは咀嚼だけだ。あとは化学反応で溶解することで原型を失わせて溶液化して体内に養分を取り込む。それをしやすくするのが物理的破壊である咀嚼行為。それをそんなにしてない、と気が付いたということは自分はここ最近あまり咀嚼しないですぐ飲み込んでいた、という事になる(冷汗)

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やわらかい食い物ならばそれでもいいのだろうけど、そうでなければ唾液の消化酵素との混合効果と固形物を細かくして飲み込みやすくして消化しやすくする咀嚼は、もっとしっかりやるべきだ。なのでそれ以降、意識して咀嚼をしつこく行うことにした。そうすると当然だけど食事の時間が長くなって、なのに食う量が少し減った。あまり咀嚼せず飲み込むとあっというまに喰い終わる感じだったけど、よく噛むとそれなりに時間が必要になり、結果それまでよりも喰う量が少しだけ減った。こころなしか満幅感を感じる量がそれまでより少ない感じ。

咀嚼して消化を助け、時間をかけて喰うことで食う量が減って、ついでに顎がくたびれるくらいよく噛むことによる運動効果、といっていいのかな、でもよく噛むと顎がくたびれるからこれも効能はあると思う。良いことばっかりだ。悪いことといえば永久歯を酷使して歯としての寿命を縮めている…かもしれない。でも今を元気に生きていなければ備えが必要な老後なんて来ない。だから今の生活を大事にしながら老人になったときを考えるのだ、どうすれば今のを楽しく生きながら将来も楽しく生きるか。これ相反する項目だけどその二つがぎりぎり両立するポイントはあるはず。

「よく咀嚼してモノを食す」、ということはその二つが両立するポイントを幅広いバンドにする効果があるんじゃないかな?、と漠然と思うのだ。
 


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2022.02.13

抑えきれない感情(更年期?)

この数年来、自分の中であることをトリガーとして発動し、それが爆発的に高まる感情がある。

その感情は不思議なもので、若いころから普通にあって、でもそれと(なんとなく)うまく付き合ってこれた。少なくとも一瞬とはいえ何もしたくないというくらいのメンタルダメージを食らうようなモノではなかったはず。

でも今はそのトリガーが作動すると、自分の中で湧き上がる感情の暴走、というと大げさだが、少なくと簡単には収まらないその衝動と少しの間闘う事になる。それに自分自身が驚いていたりもする(苦笑)

…それは何か?、それは

 『 面 倒 く さ い ! 』

というもの。そしてそのトリガーは、

 ・今まで普通にそれが出来ていたのが出来なくなっている状態
 ・今まで順調に行っていたのに偶発的な(多くは自分のミスや忘却だったりなのだが)事からうまく進まなくなる
 ・その文字の通り、細かい精密な単調仕事が延々と続くことに対するメンタル耐久力の限界が下がってる

といったことから作動することが多いように感じる。だから今例えば大型プラモデル作ったり、ボトルシップ作ったり巨大ジグゾーパズル作ったり、バイクのエンジンを全バラして再組立てとかしたら、途中でこういう感情が必ず生じてヘタしたら完成に至らない気がする(以前はそういうの嫌いじゃなかったんだけどね)。なお他人が見たら多分びっくりするだろう細かい家計簿を記録し続けることは、そいうったことよりもそれほど面倒感を感じていないから、万事が万事何もかもが面倒だ!、という事ではないらしいんだよね。

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情けない話だが、最近不用意にモノを無くすことが以前よりは増えた気がする。そしてかつては面倒さを感じながら完成に一歩一歩近づくことが出来る細かい神経を要するエンジン弄りとか電子部品のはんだ付けとかに、組み忘れや失敗などが生じやすくなっていることから「なんでうまくいかないんだろう?」という探求を始める前に「面倒くさい!」という忌諱感情の方が先に立ち上がってしまう。

そうやってイライラしても何も解決につながらない、失敗を解析して同じ事をしないように努力すればいいだけだ。そうやって理性では事象をどうコントロールするか理解してるけれど、その前に「面倒だ!」という何の役にも立たない感情が先に立ち上がる。これは平たく言えば自分が老いた、という事なんだろうと思う。男性更年期と言うやつなのか知れないし、若年アルツハイマーなのかもしれない。そうやって心配すると人生の先輩方は口をそろえてこう言う

 「ああ、年を取るとそういう風になってゆくんだよ、誰もがね」

・・・そっか(汗)

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原因はともかく、その事象と自覚がある以上、それをひっくるめた自分自身全体を理解してうまくコントロールしないといけない。

なので、まず自分がやっていることは、「片付ける」こと。やみくもにモノを押し込めて蓋をするのではなく、そこにあるべきものを動かしたのなら、それを必ず元に戻して常にそれがそこにあるべき状態を保ち続ける、ということ。つまり小物から大物まで、ホームポジションを決めて、使ったらそれをそこに必ず戻す。自分が何かをしようと動いたら必ず1つ以上の別のことを片付けること、を淡々とやっている。

感情爆発的な「メンドクサイ」はメンドクサイ状況さえ作らなければ発動しない。その一つがあるべきものが無いとか、モノが見つからない、というときにおこることを体感的に把握してるのでそれを心掛けるようにしてる。道具だけでなく捨てるべきゴミが床に落ちていればそれを拾ったり掃除機で吸ったり、も「片付ける」行為の一つ。そうやることで「生きてきた事に対するカタをつける」事が粛々とできている気がする。モノを無くすことも減ったしね(^^;)

貧困生活していても超大金持ちでも、手持ちの現金に格差は生じるけど時間ば万人に平等なリソースで、しかもそれを止めたり遅らせる事は出来ない。その結果人はじわじわと確実に老いてゆく。加老による衰えは避けられない。なのでそれを楽しむ…ことは難しくとも理解してうまく付き合ってゆく方法を模索して実行してゆくよ。元に戻らなくともだんだんそういう自分自身を認めてやれるようになってくるからね。

実際薄くなり始めた頭髪と頭皮は若いころはコンプレックスの塊でしかなかったけど、長く付き合ってきたら当時より薄くなった頭もまぁオレらしいよな、と個性として自分自身は認めてやれるようになってる(他人様からみたらみっともない中年男ソノモノなんだろうけどね)

自分という人間とは一生付き合っていかなきゃならない。気に食わないからと簡単に離婚するようなことは出来ない(苦笑)なのでいい所も悪い所も日々精査し再評価しながら、いい所と悪い所を両方自分自身だけは認めてやりながら生きてゆくよ p(^^)q
 

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2020.06.29

在宅勤務の悪影響

ここ一か月くらいここをUP出来ない状態が続いてた。

時間はあった。在宅勤務だから通勤時間分の自由時間が増えているし、残業時間も出勤するよりも減っているのでなおさらだ。

でも更新は難しい。自分の趣味に近いレベルに達している家計簿付も、以前は1~2日単位で記録していたけど、今は2~3週間に一度の周期でしかつけれていない。それはなぜかというと、在宅勤務でPC仕事を自宅でやることによる目の疲れが尋常じゃないから。

どのくらい尋常じゃないか、というと、視力がこの2か月チョイで1.5から0.7に落ちた、といえば何となくわかってもらえるだろうか?。ケイタイやタブレットの小さい液晶をみるのは寝起きの朝ならまだ耐えられるけど、夕方にはもうカネを払ってでも見たくないし、仕事でノートPCを使っている関係でそのモニター距離の私物ノートPCも目が疲れて痛くてもう使いたくない。仕事が終わった夕方は視界がボヤけて、自転車やバイクに乗る事がはばかられるくらい。久々にこれを記載しているPCは、わざわざ中古の古いデスクトップPCを貰ってきて、仕事PCの距離とあえて変えた(遠くにした)液晶モニターで目をこすりながらやっと書いている状態。まさかこんなに目が短時間に劣化するとは思わなかったよ…

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昔から、他はメタメタでも、歯と目だけはいい状態を保ってきた。なので3か月前まで視力に不安を感じたことはなった(ちょっと老眼が進んできたような気はしてたけどそれは歳相当の劣化)。でもこの在宅モードが始まってから、色々工夫はしたけど、それでも目の疲れは猛烈で、仕事でPCを使わないわけにはいかないので、プライベート時間は目を休めることに徹してた。土日は仕事が休みなのでクルマやバイクに乗るために目のパワーをそちらに割り振って私物PCを長く使うニュース閲覧とか家計簿エクセル使用を出来るだけ避けてた。それでも平日に8~10Hの在宅PCワークによる目へのダメージは正直深刻なレベル。歯と目は一生モノだから大事にしてきたのになぁ、こんな事でこんなに痛めつけてしまうようになるとは完全に想定外。肉体的老化もあるんだろうけど、それを加速しまくってる気がする。

今日は天気が良かったので、1H毎に10分ずつ庭に出て、じりじりとした日差しを麦わら帽子で防ぎつつ庭木と青空を眺めて目を休めていたのでこの時間に私物PCで長文を打てる気がしてこれを打ってるけど、それでも目の疲れはある。うーんどうやったらいいんだろう?手元証明は確保してるし、頭上の照明も明るくしている。それでも目の疲れは事務所に出勤したときより大きい。こう考えると出勤した方が身体は付かれるけど目にはまだ優しい。ああ早く新型コロナウィルス騒動終わって出社解禁にならないかなぁ、明らかに運動不足で、体重も2kgぐらい増えて、ウエストも1インチ増えたし_| ̄|〇
 


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2020.01.20

今がそうなのかも

ネットでニュースをみていたら、こんな記事があった

「40代を襲う「中年の危機」とは 」

危機というより、張り詰めていたゴムが緩んだ感じ、というのかな?、それまで張っていたことでいろいろうまく回っていたり、どうでもいいと思ってバックグランドノイズだと思ってたことが、妙に大きな存在となって圧し掛かってくる感じ。

現場での緊張感のある仕事に対して、今のサラリーマン事務所仕事は一言でいうと「気分が悪い」仕事が多くて、かつ自分に決定権がないがために思うようにコントロール出来ないというところにいら立ちと不安感は感じる。たとえるなら自分が乗って操るバイクならば峠道が楽しく走れるけど、誰かが(しかもあまり信頼信用出来ない人間が)運転するバイクの後ろに乗って、自分は何もできない状態で走っている状態、といえばバイク乗りにな何となく理解してもらえるかな?、車でいえば自分で運転していると乗り物酔いしない人が、誰かの運転で助手席に座ると気分が悪くなる、そういう感じ。

何もかもを思い通りに動かしたいわけじゃない、そんなにわがままじゃないからね。ちゃんと膝を突き合わせて目を見て話して、決まって、約束したことを、愚直にみんなが対等の立場と価値観で取り掛かって最終的に約束通りに片づけていければいい、ただそれだけなんだけど、それをしないで話を聞いてなくて(または聞いたのに理解してなくてそれを後出しにして)、後々になって理不尽を押し付けてきたり、話し合って決めたことをひっくり返したり、それを指摘すると老若男女問わず開き直って居直ったり、という状態にしょっちゅう出くわす。

そういう時は基本的に傍若無人であっても声が少しでも大きい人間、立場が少しでも上の人間の言うことが(どんなに理不尽であろうと)結局通ってしまう。技術論や、エビデンスに基づいた決定とかが、全然通らない現状は技術系の人間としてはすごくおかしいと思うけど、ある意味会社という組織、というか人間社会というものがそういうバックボーンなんだろうな、と今更になってあきらめにも似た感情でいやいや理解して(いや理解などしてなくて単なる妥協なんだけど)やり過ごす、そういう状態。

…少なくとも、今までのサラリーマン人生でこういうドロドロした感情を持たされることはあまりなかった(=幸せだった、ともいえる)。なので今の状態は自分がただ鈍いだけで、実は早期自主退職に追い込もうとするパワーハラスメントなのかな?、とも思うくらい。自分がこの会社でこれはオレしか出来ないよ、と豪語出来る得意とする職務は今の環境や職場では持て余すことは事実で、会社として今後二度とやらないかもしれない。そうなれば自分を雇ってる意味は短期的にはないだろう、などと考えたりもする。それ以外もできるけどね。

少なくとも今までのように楽しさとかやりがいとか、使命感とか、自身の充実とか、そういうプライスレスなプラス側に引っ張ってくれたモチベーションが今は枯渇寸前(苦笑)。今の仕事に銭勘定はあってもワクワクする楽しさや夢がない(自分は過去にそれを経験してきたからまだいいけど、入った途端にこれじゃ新入社員やワカモノは会社やめちゃうんじゃないかな?、と不安にもなる)。これを「中年の危機」というのなら、そうなのかもしれない、とそのネット記事を読んで思った。

とりあえずまだ生きてる以上何かを食っていかねばならないし、迫る老後の準備も(ぢつはほぼ完成しつつあるんだけど)想定しているパーフェクト状態を達成するためには最低あと5年は働いていないとダメな計算をしているので、まぁしゃーない、やれるだけはやるさ、一応分別のある大人だからさp(^^;)q

…とはいえ、ちょっとだけ今の会社生活に疑問を持っているのは事実。なので少しずつ色々なことを考えて生きてゆくよ。

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2019.07.23

全力限界ラジオ体操

僻地での仕事はそれまでの現場仕事と違って管理職でありデスクワークが多かったのもあり、絶対的運動量がなかった。危機感を感じて帰宿後にセカセカ一時間くらい歩いたりしてたけど、降雪すればそれも出来なくて狭いビジネスホテルでゴロゴロするしかなく、結果養分過多ぎみとなり体重が増えていった。

諸事情で安くご飯が腹いっぱい食えた、というのもある。貧乏性なので食えるときにおなかいっぱい食べたい(でないともったいない)というひもじい幼少期にインプリンティングされた想いはどこから見てもオッサンにしか見えない歳となってもまだ自分にプログラミングされたままだ。なのでインが多くなり、アウトが減る、という状態が続いたため、腹回りはブヨブヨになり、メタボ判定基準に引っかかることになった。

なので現場仕事があけて開放されて自宅に戻ってきたら、いつもの貧乏食生活に戻るわけで、また通勤だけでもそこそこ歩いて立って、を行うため、必然的にインが減り、アウトが増えた。そこに中年太りに対する警戒心をエッセンスとして加え、さらに久々に復活した自転車と言う趣味を楽しむ余力が生まれたこともあり、インは減ったまま、アウトがさらに増えた。その結果、4月末の体重から現時点で約7kgほどの減量に成功している。


インとアウトと言う話をしたように、体重管理は実は家計管理に凄く似ている。平たく言えば、欲望に負けずひたすら自分を締め上げると、成果が必ず出る、ということ。こういう「自分自身をイジメる」のはかなり得意な領域なので、家計管理同様体重管理も実は得意分野だったり(^^ゞ

その「アウトを増やす」方法の一つとして今回ラジオ体操をあげておく。

以前職場でのラジオ体操のネタをUPしたことがあったけど、職場におけるラジオ体操は単なる準備運動だけでなく、これから働く人がちゃんと身体を動かせているかを監視して異常を検出する大事なシステムだ。今回の減量では、このサラリーマンの職場でも毎朝時報代わりに流れているラジオ体操もフルに使わせてもらった。

やり方は簡単、ただ単に、朝のラジオ体操をする時に「ちゃんと」やるだけ。第一だけでいい。これだけで立派な運動になる。

ラジオ体操なんてたいしたことないだろ?、と人は言う。でもラジオ体操をやるときに流れている動きのアナウンス、それの前に「全力で」と、「限界まで」という文言をつけたらどうなるか?、自分はただそれをやっているだけだ。

つまり、ラジオ体操の動きを緩慢に行わず、曲のスピードに合わせて最大の動ける範囲で動かし、足を開き、飛び、動く関節は曲がる限界まで全速力で曲げ、高速で戻すのだ。そうすると単なるラジオ体操が第一を終えた頃には額から汗がタラリ、とするくらいになる。少なくとも終わったら団扇で扇ぎたくなる。そのくらいまで動くと、ラジオ体操も立派な運動になるのだ。

そういった運動や、日常動作ちょっとずつハードにしてゆき(遠回りして歩くとか、歩く速度を変えるとか、歩幅を増やすとか、通勤用デーバッグに2Lの水入りペットボトルを入れて通勤するとか)消費カロリーコツコツ積み上げて、そして食う量をタイミングと量を計算して最小に止める。何度やってもこれが貧乏節約生活における家計管理と本質的に同じだと思う(そういうとみんな首をかしげるんだけど、自分はそう信じる、実際に効果出てるしね)。

ほら、この通り、向こうでベルトなしで履いてたズボンがダブダブになるくらい十分な効果がね(^^ゞ



 

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2019.05.07

(自宅生活に)生還す

諸事情により、はるか遠方の現場へ飛ばされて約二年くらい。

これがまた諸事情が発生し、この元号が切り替わるGWを前にその任期が突然の終焉を迎えることとなり、長く暮らした(少なくとも自宅を買ってから生活していた期間よりも長い)ビジネスホテル生活に終わりを迎えることとなった。

職場の荷物整理、挨拶周りを経て業務終了。宿の片付け荷造り、そして四輪車と二輪車を持ってきてしまっていたのでそれを自宅に戻すために、まずホテル暮らし生活用品等々一式を積み込んだ四輪車で延々長距離を走って自宅に戻り、その後再び列車で最果てに向かい、自腹でそのホテルに一泊、翌朝チェックアウトして(よりによってその日は悪天候で終日雨だったが)バイクに乗ってまた同じ道を延々走りまくり完全撤収を果たした。

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GWは今までの連休のように、短い滞在時間中にやる事をやれるだけこなす、という尻に火が付いたような焦燥感を感じることなく、ひさびさにのんびり過ごした。かれこれ丸4年ほど肌身離さず持ち歩くことを義務付けられていた、何かあればあらゆる所からホットコールが鳴ってどこからでも呼び出される社給携帯を返却しただけで、こんなにも心の自由を感じるのか!、と我ながら驚くほどの自由感、開放感にひたれた。たった電話一個持っているだけで、相当なプレッシャーだったんだな(苦笑)

・・・と言うことで、ココしばらくは自宅で生活することに。一番うれしいのがコインランドリーと乾燥機を使わなくてよくなった、自由にいつでも順番待ちしないで洗濯して、モノが干せる、という事かな、実は未だに例の半自動洗濯機を使い続けているんだけどね(苦笑)

自宅の整理整頓と、乗り物道楽、庭草庭木小動物たちとの語らい等々、少しここを更新するネタも出来やすくなったので、出張中よりも更新ペースを上げる方向で頑張りますp(^^)q

 

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